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天皇の諸問題

 投稿者:山下 永二  投稿日:2019年 6月14日(金)07時39分37秒
返信・引用 編集済
  御代の譲位がスムーズに行われ新天皇が即位され、平成から令和になって新時代を迎えたことは日本人にとって幸せであった。然しながら、その背後に幾つかの諸問題が存在していた。
1 天皇の譲位は認められるか
・ 天皇の退位は、憲法第2条「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定める所によって、これを継承する。」に基づいて皇室典範第4条「天皇が崩じたとき、皇嗣が直ちに即位する。」と規定されている。要するに天皇は、終身であり退位は、崩御した時しかできないため、生前退位や譲位の概念がない。憲法制定当時 天皇の高齢化については想定外であったろう。皇室典範を改正するか特別法で対応するか検討され、内閣の政治的判断により天皇のご意向とご高齢による身体状況を配慮して、明仁天皇だけに限定した退位特例法によって退位が決められた。譲位によって皇位を徳仁天皇に継承された。歴史的には68人の天皇が譲位によって継承されている。天皇親政時代には、皇族内の対立から皇位継承問題に絡む争い、南北朝の争い、院政等による権力闘争があったが現代の立憲君主制において天皇の退位について新たな生前退位という課題が残された。
・ 皇位継承問題は、小泉内閣時に万世一系の男系天皇か女系天皇を認めるかの問題が議論されたが、悠仁親王が誕生されてから発ち消えになった。これも検討課題である。
2 天皇の基本的人権は制限されるか
・ 天皇は、国民の総意に基づく象徴であるため、政治的には中立でなければならない。国政に関与できないので、選挙権や被選挙権はない。又職業選択の自由、外国移住、刑事訴訟はない。いくつかの人権は制限されている。
・ 信仰の自由は認められるか
上代では、天皇家は神道と結びついて祭政一致で宗教そのものが政治であった。現代 天皇は国家の一機関であるとはいえ、二千数百年来の歴史の中で継承されてきた神道から切り離すことは不可能である。仮に天皇が神道以外の宗教(除く仏教)を信仰したら、国民総意に基づく象徴天皇の存在価値が無くなり崩壊するだろう。自然を対象とする多神教の日本人の宗教観と神を絶対とする一神教の宗教観とは神の概念が全く異なる。
信仰は、心の問題であるから法律的に信仰の自由が許されても、国民統合の象徴天皇の皇位を考えると、道義的に信仰の自由は制限されるだろう。皇后であっても然りである。その場合は皇籍離脱すべきである。
3 天皇の儀式は政教分離規定に何処まで可能か
天皇の行為は、憲法に定められた「国事行為」のほか、「公的行為」と「その他の行為」がある。「その他の行為」の中、「公的性格、色彩を有するもの」と「純粋に私的なもの」とがあり、問題は「大嘗祭」で行為の趣旨、内容によってこの前者に位置付けされ公的行為として扱われている。宮中祭祀の中「公的行為」儀式は、神道の様式を適応した単なる儀式に過ぎず宗教活動ではない。これら天皇の「公的行為」儀式に大臣や衆参議長、知事等が国民の代表として参列することは、政教分離規定に反しないことは最高裁の判決により認められている。これ等の公費は警備上の経費が多く占めていると聞く。儀式要領、人数制限など経費削減は考慮されなけらばならないことは云うまでもない。
4 天皇の韓国に対する謝罪について
韓国の文在寅政権になってから、日韓関係は急激に悪化した。慰安婦問題や元徴用工問題や自衛隊機に対するレーダー照射問題等の歴史や事実を修正して日本に対する外交的攻勢を仕掛けてきた。1965年(昭和40年)最貧国だった韓国は、日韓基本条約を締結して日本から5億ドルの資金援助を得て、飛躍的に経済は回復し「漢江(ハンガン)の奇蹟」と言われるほどに国力が向上した。その祭、日韓請求権・経済協力協定によって、請求権問題は完全かつ最終的に解決している。過去に総理大臣が何回か韓国に謝罪して、不幸な歴史的事項(具体的には日韓併合)に対する賠償問題を清算した。基本条約やその他の約束協定を反故にした韓国との外交関係は停滞している。韓国には「恨(ハン)の思想」が根づいており終わりなき戦いが継続されるだろう。こんな情勢の中、天皇が韓国へ行って謝罪したら、韓国の言い成りになりに嵌まって政治的混乱は更に深まるだろう。たとえ謝罪したとしても韓国は次々と賠償要求をしてくるだろう。天皇が政治的行為に巻き込まれて抜け出せなくなるのは目に見えている。天皇を巻き込むのは韓国の外交戦略かもしれない。日韓関係や朝鮮半島情勢が安定し、正常になったら謝罪は意義があるが先は長い。




 
 

天皇・皇后と信教の自由

 投稿者:徳永 博  投稿日:2019年 6月 8日(土)11時31分53秒
返信・引用 編集済
   今から三十数年前のことになるが、私が勤務していた特許庁の特許制度百周年記念式典が、三宅坂の国立劇場で挙行されることになり、その日早朝から通産大臣はじめ特許庁長官、部課長約百名が式典会場に参集していた。定刻になると花道を二人の老人が歩いてこられ、舞台中央に用意された椅子に腰を下ろすまで、参会者一同直立不動の姿勢で出迎えた。制度百周年記念行事はそれから約一時間,賑々しく行われたが、その間舞台中央に着座している二人の老人は一言も発することなく、式典終了後また全員直立不動の中を、花道を静かに歩いて去って行かれた。それが花道の端にいた下端管理職の私が、遠くから昭和天皇と入江侍従長を見た最後の日になった。その数日後、入江侍従長の訃報が新聞の片隅に載っていた。昭和天皇の崩御はそれからしばらく後のことになるが、二人の老人にとって、彼等とは何の関係もない特許制度百年式典で、舞台中央の御座に座っているだけでも苦痛だったのではないだろうか。

 明治維新政府から排除された旧幕臣の中から、比較的高度の知識を持ち、独立心旺盛なキリスト者が輩出した。札幌農学校二期生の内村鑑三、同志社の創設者新島譲、組合教会を率いた海老名弾正等である。しかし彼らは、当時宣教師が求めた「皇祖皇宗の神霊に拝跪すべからず」という信仰箇条を受け入れることが出来ず、天皇制国家との対立を避けて通って来た。それのみか戦前のプロテスタント教会の指導者達は、天皇個人に対する敬愛の念を隠そうとしなかった。教育勅語不敬事件で第一高等中学校を追われた内村鑑三でさえ、JapanがJesusの上に来る危うさがあった。天皇制軍国主義にあれほど批判的であった南原繁や矢内原忠雄の二人も、天皇への敬愛において他の人に勝るとも劣らない。結局、これらの偉大な指導者達も『天皇の神聖性』を批判しうる聖書的感覚と神学的判断力を欠いていたと言わざるを得ない。昭和期には、「一九四四年アジアの諸教会に送られた『日本基督教団より大東亜共栄圏内に在る基督教信徒に送る書簡』が、形の上では使徒書簡の装いを取りつつ、その実、徹頭徹尾、絶対主義的天皇制の讃美を旨とし、侵略戦争を美化し,かつまた、被侵略国民を恫喝する試みでもあった。

 未曽有の敗戦は、事実日本国民とりわけ日本人キリスト者に対する神の裁きであった。しかしこのことが我々教会人に十分に把握されず、また同じ過ちが繰り返されようとしているのを、2014年12月7日付けキリスト新聞に掲載された「日本を愛するキリスト者の会」の設立趣意書が明らかにしている。彼等は「神は日本人に『贖いの賜物』として神道や天皇を与えて下さっているので、この認識に立ってGHQの洗脳政策による自虐史観を克服し、真に日本人と日本文化を愛し、皇室への恵愛、大東亜戦争の正当性、国歌・国旗の尊重などを打ち出して宣教に励めば、キリスト者人口1%の壁は敗れる」と主張している。これが政権与党の憲法改正の趣旨と瓜二つなのに驚かされるが、果たしてこのようにして「1%の壁」を破り繁栄する教会が、真に「キリストのからだ」と言えるものになるのだろうか。

 私の尊敬する牧師の一人が、明治天皇に始まる八人の天皇・皇后が「キリスト教徒となりうるか」という問いかけをした。その結果は、ほとんど絶望的な回答しか与えられていない。日本国憲法第二十条に謳われた「信教の自由」-それは大日本帝国憲法第二十八条においても保障された国民の権利だったのだが―は、これら歴代の天皇・皇后には享受されていなかったのだ。
 明治天皇は伊藤博文等明治の為政者が起草した「大日本帝国憲法」によって「現人神」として、宮城内に創設された三殿(賢所、皇霊殿、神殿)での皇室祭祀において帝国の繁栄と戦勝祈願に精励された。この宮中三殿における天皇の祭司職は歴代の天皇に受け継がれ、皇后その他の皇族も、衣冠束帯に身を包んで三殿に拝礼する習わしになっている。その他皇祖を祀る伊勢神宮その他の皇室御陵への参拝は、神道行事として守られている。これら皇室の私的行事とされていたものは、皇位継承等重大行事の場合は、立法・司法・行政の長を含む国民の代表が皇室祭祀に参列することが定着している。憲法第20条第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」は、この条文を起草した立法の長の後継者たちによって無視されているが、今はそのことを追及しない。ただこの書で採り上げている四代の天皇・皇后がいわば「囚われ人」として、日本国憲法第20条の「信教の自由」を享受されていない現実を見る。

 皇室の歴史の中で、当時中国渡来の仏教に帰依された皇族が多数居られた。聖徳太子の十七条憲法は、仏教思想を我が国に広めた法規として、国史の中で光彩を放っている。また亀山上皇を始め、幾多の天皇・上皇が自らの意志で仏門に帰依された。それが近代になって、明治維新以降創設された国家神道の祭祀に天皇・皇后が宮中三殿における祭司としての務めを担われることになって、国民が等しく享受する「信教の自由」を剥奪され、敗戦後国家神道が否定された後も、宮中三殿、伊勢神宮等皇祖の霊廟は存続し、皇室の私的行事と称しながら、為政者や議会野党の党首までもが、伊勢神宮その他に参拝する事態になっている。「信教の自由」は、天皇・皇后には享受されず、国民の代表たる為政者には勝手に解釈され、誤用されている。そして国民はそのような天皇・皇后を祝賀しようと皇居に蝟集し、そのような為政者の安泰を願って彼等に投票する。これが立憲民主主義国日本の実態なのだ。

 去年明仁天皇がテレビを介して国民に天皇に課せられた象徴としての国事行為を遂行することの困難さを吐露され、それを忖度した安倍内閣が現行憲法第2条、及び昭和22年制定の皇室典範第4条「天皇は崩御により皇嗣がこれを継承する」を棚上げして一代限りの生前退位を認める特別立法を制定して、今年5月の平成から令和への改元が実現した。政権与党の憲法および皇室典範の例外規定の立法姿勢の軽薄さにただ驚くほかはないが、その発端となった明仁天皇のテレビ談話は、それが政治的発言になることを思惟しつつ、人間天皇として国民に語られた勇気ある発言だったと評価することができる。

 実は天皇の生前退位は敗戦直後にも政界筋で囁かれていたことだった。御前会議での開戦、終戦の詔勅、敗戦後多くの閣僚や軍人達が戦争犯罪人として訴追される中、御前会議の主催者であった昭和天皇が免訴されたとしても、道義的責任として退位すべきであるという意見は、皇軍に蹂躙されたアジア太平洋諸国のみならず、国内の有識者の間でも広がっていた。昭和二十一年の憲制議会で貴族院議員の南原繁が「天皇の退位はありうるのか」と質問したのに対し、幣原喜重郎首相が「平価切り下げをするようなことはありません」と答弁した逸話が残っているが、当時の内閣にとって新憲法の下でも「国体が護持」されることが最大の懸案事項であり、そんな緊急の時に天皇が退位を表明されることは、政治的混乱を招くこととして、絶対に避けたかったことであろう。

 それから70年、昭和天皇が生前退位することが出来なかったことを知悉しているはずの明仁天皇が、あえて生前退位の意向を漏らされた勇気に、私は感銘を受けた。そしてこれが実現した今、明人上皇は美智子上皇后とともに、宮中三殿での皇室祭儀から解放され、お元気な内は国内旅行も天皇行幸時よりも自由に出来るであろう。今まで幾度も行かれた福島の被災地を尋ねられるもよし、もしその気があるなら韓国ソウルに飛んで、元従軍慰安婦たちの前に座って、一言「すまなかった」と言ってくださると、ここ数年こじれている日韓関係は一挙に快方に向かうと思うのだが。いずれにしても、小学校から大学までカトリック系の学校で教育を受けられた美智子皇后が、皇太子妃時代の受苦を乗り越えられ、皇后となって後は天皇とともに皇室神道の伝統の遵守に先代にも勝って意を注いでおられたことは、あまり知られていない事実である。しかし、明仁上皇、美智子上皇后にとって「バビロン捕囚期」は終わったのである。これからは教会のミサに出席することはできなくても、聖心女学院の学友や教師たちとの自由な交流を回復して、「囚われ人」からの解放を果たしていただきたい。

 

日本人に神はいるのか

 投稿者:石井ト  投稿日:2019年 5月31日(金)15時27分11秒
返信・引用 編集済
  遠藤周作は、
『「海と毒薬」の中で、医局長の妻ドイツ人のヒルダさんをして、遠藤が「あなた方日本人に、神はいるのか」と問い詰める・・・』
と書いているそうだが、その答え、その本に書いているのだろうか?
書いているのであれば、どう書いたのだろう?

ヒルダの詰問への正解は「神はいる」だろう。
「神はいない」と答えたとしたら歴史と矛盾する。
 

海と毒薬

 投稿者:徳永 博  投稿日:2019年 5月21日(火)05時58分31秒
返信・引用 編集済
   教会にある戦争文学全集5に遠藤周作の「海と毒薬」が収録されているのをみて、借出して読んだ。この作品は昭和45年「毎日出版文化賞」を受賞した作家遠藤の中期の作品の1つで、文学全集の編集者の一人大岡昇平が解説しているように、この全集に収められている戦争記録の中で唯一作者本人の実体験に基づかないフィクションである。
 しかし、そのモデルになっている「九大生体解剖事件」は敗戦直前の1945年5月、当時の九州帝国大学医学部で米軍捕虜を生体解剖し死亡させた事件で、フィクションではない事実である。またこの事件は敗戦直後郷里佐賀における私の幼少時の出来事と関わりがあるので、その頃の出来事を思い出しつつ、興味深く読んだ。その「事件」そのものは、戦争によって醜く歪められた人々の姿があり、「海と毒薬」の中で、医局長の妻ドイツ人のヒルダさんをして、遠藤が「あなた方日本人に、神はいるのか」と問い詰める、深刻な告発を含んでいる。

 「九大生体解剖事件」は1945年5月、福岡を爆撃するために飛来したB29が大分上空で海軍航空隊紫電改の体当たり攻撃で撃墜され、落下傘降下した9人の搭乗員が捕虜となり、情報収集のため東京に護送された機長のワトキンス中尉以外の8人が、捕虜の処遇に困った西部軍から九州大学医学部卒の小森軍医の紹介で第一外科部長石山教授の下に送られ、不足する代用血液の開発のための実験、結核治療法確立のための実験等のため、フレドリック少尉他2名の少尉、5名の米人軍曹が、西部軍の将校、多くの医学生が見守る中で生体解剖され、絶命した。その後遺体は秘密裏に処分されたが、関係者が多かったために8月の敗戦後進駐してきた米軍の知るところとなり、首謀者の西部軍将校、九大関係者が逮捕され、巣鴨拘置所でBC級戦犯としてGHQフォン・バーゲン検察官の尋問を受けることになった。生存を顧慮しない臨床実験手術を主導したとされた石山福次郎部長は医師の守秘義務を盾に尋問への回答を拒否し、自分が行った手術はすべて捕虜の命を救うためだったと生体解剖の事実を否認し続け、獄中で自殺した。発案者の小森卓軍医も既に空襲で死亡していたので、事件は横浜軍事法廷に移され、1948年西部軍将官2名、九大関係者鳥巣太郎助教授他講師1名が絞首刑、立ち会った医師18名が有罪判決を受けた。しかし1950年に始まった朝鮮戦争によりGHQの対日政策が変化し、再審の結果これら受刑者は減刑後恩赦されている。

 この「九大生体解剖事件」は遠藤周作の「海と毒薬」の他、上坂冬子が捕虜の死体から肝臓を取り出して西部軍の将校が試食したという事実はなく、検察官のでっち上げであることから、生体解剖そのものもなかったと主張したり、最近では熊野以素が「生体解剖事件―70年目の真実」と題して、鳥巣助教授は石山教授から手術の対象が誰かは事前に知らされておらず、石山教授自殺後事件の首謀者とされ、10年も刑に服したのは不当で、むしろ被害者だったと主張するなど、事実と向き合わず事件の重大性から身を守ろうとするものが、次々と現れている。また九大関係者はこの事件が大学当局の組織的な関与でなく、一部の医学部関係者が私的に行った事件として、医学部百年史にもその記載はない。中にはこの事件は九州帝国大学で起きた事件で、国立九州大は無関係だと言い張る輩もいる。まさに戦争犯罪は旧軍部の仕業、戦後世代は関係ない、一般国民はむしろ被害者だったという主張がまかり通っている。このような言い訳は、実際に起きた事件を矮小化し、そこで罪を犯した人間を、戦時中の殺気立った雰囲気の中で、大学の医学部という組織の中、医局長の命令で動くしかなかったのだという釈明で、自分はむしろ戦争被害者だと開き直る、哀しい人間像が浮かび上がる。

 1944年から45年にかけての米軍の本土爆撃は熾烈なもので、3月10日の東京大空襲、8月の広島、長崎への原爆投下はそれ自体戦争犯罪といってよいものであった。そしてたまたま撃墜され捕虜となった搭乗員は報復として極刑に処せられていた。しかしいくら医学的実験が医師の治療の世界で必要だからと言って、捕虜の搭乗員を確実に死なせる実験に供するなど、医者としての倫理に反することは明らかである。それが医学の聖域とされる大学病院で行なわれたことに、人の罪深さを思わずにはおれない。どうせ極刑に処せられて死ぬのだから、医学の実験に供すれば後に多数の患者を救う知見が得られる、というのは悪魔のささやきでしかない。その前に敵国の捕虜を、裁判を経ずに死刑にすることは戦時国際法にも違反する。当時の旧軍隊及び一般市民には、そんな知識も倫理観も無かった。

 鳥巣助教授は石山教授自殺の後事件の首謀者とされ、横浜軍事法廷で絞首刑、その後減刑されて10年巣鴨刑務所にいたことを、私はのちの裁判記録で知った。
「九大生体解剖事件」が,第二次大戦中中国東北部で起きた731部隊の中国人を医薬の実験材料にした事件を想起させる。九大事件が一時期の出来事であるのに対し、731部隊のそれは長期にわたり組織的に実施され、しかも犠牲となった人命は遥かに多数なのに、731部隊の軍医たちは戦後訴追されることもなかったのに対し、九大事件は獄中自殺した石山教授をはじめ、のちに減刑、釈放されたとはいえ鳥巣助教授他多数の受刑者、多数の被疑者を出し、彼らの人生を狂わせたことで、違いがみられる。また戦後九大事件を厳しく訴追した米国進駐軍が、731部隊石井四郎軍医には免訴したのは、事件の対象が一方では米軍人だったのに対し、他方は無名の中国人民衆であったことで、アメリカ人が表で自由平等を唱えながら、自国の軍人に対する犯罪には厳しく、対象が無名の中国人だったので、膨大な数の人命が生体解剖実験で失われたにもかかわらず訴追をしなかったのは、人種差別とも受け止められる。

 いずれにしても戦争さえなかったら、石山福次郎教授も石井四郎軍医も結核治療や防疫研究に生涯を捧げることができたはずである。それが忌まわしい事件の首謀者として第二次大戦史の一画にその名を留めるようになってしまったのは、彼らの医者としての倫理観に欠陥があり、彼らには神の存在が見えなかったことに第一の原因がある。また当時の日本が国を挙げて「鬼畜」米英と戦争をしていて、一種の狂気が軍人だけでなく一般市民を覆っていたことにも原因がある。それによって彼らは平時には罪悪とされることが戦争時には肯定され、むしろ称賛されるという、価値観の倒錯が起こっていたのである。戦時国際法などは、究極のところ偽善に過ぎない。ゲルニカに始まり重慶爆撃に続き、B29によって本格化した戦略爆撃は戦闘員とそれにかかわりのない一般市民を無差別に殺傷することで、平時では決して肯定されない犯罪行為であり、またその行為者である爆撃機の搭乗員を、相手国の人間が法的手続きも踏まず、殺してしまってもよいということにはならない。さかのぼって戦争そのものが「汝殺すなかれ」という神の戒めに違背している。それを神の言葉として聴いている私達は、ことあるごとに「戦争反対、平和を創り出す人は幸いなるかな」と叫ぶのである。

 第一次世界大戦の惨禍が、それまでの国際的紛争と著しく異なっていたので、人々は1928年不戦条約にその知恵を集めたが、不幸にもドイツのヒトラーや日本の昭和軍閥の台頭で世界は不戦条約から10年も経たないうちに第二次世界大戦に突入し、アウシュヴィッツや原子爆弾まで出現させてしまった。1947年の日本国憲法は20年前の不戦条約の思想の再現ともとれる、世界的にも貴重なものであるが、その価値を認めない我が国の為政者によって、有名無実なものとされてしまっている。戦争を知らない世代の国会議員の中には、領土問題を解決するためには戦争しかないと極論する者まで出て、国の将来が危ぶまれる。
 このような時こそ、憲法制定時の原点に立ち返って、人々が国際的紛争の解決手段として戦争を放棄しない限り、多くの人命が失われるだけでなく、生き残った者も70年前の「九大生体解剖事件」にみられるような狂気と錯綜へと際限なく陥ってしまうことを、心に刻まなければならない。

 遠藤周作の「海と毒薬」には、大学の医局員だった勝呂が、医局で行われた手術後、虚脱感に襲われ大学病院の屋上に上って一服していた時、西の方角にあるF市が、B29による夜間爆撃で燃えている、その紅い炎を見て、更なる虚脱感にとらわれていく場面がある。丁度同じころ、私は郷里佐賀で、国民学校1年生で、北の方角背振山脈の向こうに、福岡市街が夜間爆撃を受けて紅蓮の炎を上げていたのを何度も見た。そして九大生体解剖事件もその頃、密かに行なわれていたのだ。そして勝呂医局員を含め多くの医師や軍人たちが生体解剖事件に関与していたのだと思うと、同邦の罪深さ、戦争がそのような人たちを悪魔の化身としたことに、暗澹たる思いにとらわれる。そして、残された我々がなすべきことは、これら戦争時の出来事を歴史の中に封印してしまうことではなく、明るみに出し、このような戦争が再び起こることがないよう、叫び続け訴え続けることではないだろうか。                         (2019年5月20日)

 

天皇の退位と即位の儀式について

 投稿者:山下 永二  投稿日:2019年 5月15日(水)09時41分44秒
返信・引用 編集済
  1 天皇の退位・即位の儀式
皇位継承の儀式には、
・ 皇位の証である三種の神器を受け継ぐ儀式
・ 即位したことを国民に示す即位の礼
・ 即位した天皇が初めて行う五穀豊穣を神に捧げる新嘗祭
を行う手順が受け継がれてきた。
政府は、明仁天皇の譲位による退位に伴い、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を施行し、退位及び新天皇に伴う国の式典等を行うため「退位礼正の儀」、「剣璽等継承の儀」、「即位後朝見の儀」、「天皇在位三十年式典」、「大嘗祭」等を国の儀式として行うことにした。
・ 日本人の慶弔には、古来から宗教と関わる伝統的習俗習慣がある。
我々庶民では、正月のお祝い、初詣、七五三、お盆の墓参り、葬式等宗教と切り離せない習慣が受け継がれている。まして、二千数十年の長い歴史の中 天皇家は、日本固有の宗教である神道と深く結びついた多くの儀式や行事を継承されている。
2 儀式に関する違憲論
・ 昭和天皇は、明治憲法の基で即位されたので憲法上の議論はなったが、明仁天皇は現憲法下で即位してから天皇制そのもののあり方等憲法上から色々議論されて訴訟まで発展した。今回の徳仁天皇も同じ様に儀式等について異論がとなえられ、即位前から訴訟が起こった。
・ 日本共産党は共和制を目指し戦前から天皇廃止を党の基本に置いており、徳仁天皇の即位儀式について、政教分離に抵触すると異議を赤旗に掲載した。また左筋の弁護士等が、「退位礼正の儀」、「剣璽等継承の儀」、「即位後朝見の儀」、「大嘗祭」等は極めて宗教色が強いと憲法第20条3項政教分離原則に反しこれに国費を支出することは第89条の宗教組織への公金支出禁止に違反だと違憲訴訟を起こした。キリスト教団も同じような訴訟を起こしている。
3 象徴天皇と国事行為
・ 現憲法では、第1条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と日本は、議員内閣制を採用する立憲君主制で君主は国政に権能を有しない「象徴天皇」を新たに定めた。「象徴」とは何だろう?「元首」という条項はない。曖昧な表現のため、学者では、天皇は元首か否かの解釈が分かれ天皇制に疑義をもたらしている。
・ 国事行為は、第4条には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」とし、第6条に「内閣総理大臣と最高裁判所長の任命」のほか第7条に「内閣の承認と助言により以下10項目の国事行為を行う」と天皇として役割が定められている。
① 憲法改正、法律、政令及び条約を公布
② 国会を召集
③ 衆議院を解散
④ 国会議員の総選挙の施行
⑤ 国務大臣及びその他の官吏並びに全権委任状及び大使・公使の信任状の承認
⑥ 大赦、特赦、減刑の執行及び復権を承認
⑦ 栄典の授与
⑧ 批准書及びその他外交文書を承認
⑨ 外国の大使・公使を接受
⑩ 儀式を行うこと
この条項をみる限り、社会通念上又国際的にみても「元首」としての役割を規定していると思われる。天皇、外交関係においても諸国から国を代表する元首として待遇を受けており、権能はないが国を代表する「元首」と解釈するのが自然だろう。
・ 天皇には国事行為のほか公的行為と私的行為がある。
公的行為には、国会開会式、国体等行事への臨席、国内行幸、外国への公式訪問、外国賓客等は、第3条の趣旨により最終的には内閣が責任を負うとされている。従って、国事行為、公的行為に宮廷費等公費が支出されている。
4 天皇の儀式行事は政経分離に違背するか?
政教分離については、靖国神社問題で述べたが、国家と宗教と分離は、一定の限度はあるが、社会的・文化的宗教習俗に関する行為の目的や効果によって許されるという「広義の政教分離」の解釈を最高裁は判決した。
・「退位礼正の儀」、「剣璽等継承の儀」、「即位後朝見の儀」、「大嘗祭」は、天皇の退位と即位を国民に明らかにするとともに国民に挨拶される関連した儀式である。これ等儀式は、「大嘗祭」を除いて第7条天皇の国事行為であるが、譲位による即位のため、皇室典範特例法により施行された。
・「大嘗祭」は、毎年11月に、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭礼である。儀式として始まったのは古く7世紀頃からで天皇の御代替わりに伴う皇位継承の重要な儀式として皇室の伝統とされてきた。近年 宮中祭祀は、私的行為として行われてきたが、「大嘗祭」だけは天皇の即位の礼に伴う関連儀式として公的行為とされた。「大嘗祭」への国費支出や都道府県知事の参列は、政教分離違反と違憲訴訟が起こされたが、最高裁は、国費支出は不利益を与えない儀式であり、知事等の参列は政教分離の「目的効果基準」に照らし憲法に違背しないと判断し訴えを退けた。
5「剣璽等継承の儀」に皇族からの参加者は皇位継続資格のある成人男性皇族に限られた。皇室典範第1条に男系天皇を継承すると規定され、これに基ずく長年の伝統的儀式内容を外から薀蓄するほどではないだろう。
・ 天皇の政教分離違背より、むしろ政治家の天皇利用を警戒しなければならないだろう。


 

森永君へ

 投稿者:徳永 博  投稿日:2019年 5月11日(土)12時29分48秒
返信・引用
   5月3日付け拙文に対する5月6日付け森永明君のご指摘は、正にその通りです。元号を冠した天皇名は、該当する天皇の崩御後に〇〇天皇と呼ぶ習わしであることは、佐高3年の時の日本史の講義で聴いて、知っておりました。しかし、今上天皇が御生存中に改元が実施されるという、今まであまりなかった事例に慌てて、つい「平成天皇」「令和天皇」と言ってしまいました。
 そこで早速、拙文のタイトルと本文書き出しを直し、佐高ホームページの格式をとりもどすことにしました。
 森永君、ご指摘どうも有り難うございました。
 

掲示板でちょっと気になる文言

 投稿者:森永 明  投稿日:2019年 5月 6日(月)14時54分18秒
返信・引用 編集済
  八期会掲示板5月3日の徳永 博君の記事で、書き出しで「平成天皇の退位 令和天皇の即位....
とあるが、元号名は天皇崩御後に使うものとWebかなにかで読みなるほどと納得した記憶があります。精査が必要かも。なにせ八期会自慢の公式のホームページですから。

(注記)この書き込みは、森永君発の書き込みですが、森永君が掲示板での書き込みに何回やっても成功しないから、HP管理者に書き込み代行を依頼されたことにより、書き込みを代行しました(HP管理者)。
 

天皇即位に思う

 投稿者:徳永 博  投稿日:2019年 5月 3日(金)10時42分50秒
返信・引用 編集済
   このところ今上天皇の御退位と、皇太子の天皇即位で国中が騒がしくなっています。昨日は「平成最後の日」と称して、巷のあちこちでまるで大みそかを送るような、様々なイベントが繰り広げられていました。それ自体何も目くじらを立てて批判する必要はないが、このような騒ぎの背後で、国の中枢で今後の国のあり方を変える諮りごとが、国会の議論もなく閣議決定されることが進んでいるようです。それは今朝行われた天皇の剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀が、日本国憲法に規定する天皇の国事行為とすると、その直前の閣議により決定されたことです。

 日本国憲法第7条には、天皇の国事行為として、1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること、に始まる十の国事行為が限定的に規定されています。また皇位の継承に関しては、第2条に「国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」とあり、皇室典範には、皇室儀式として、天皇の即位の礼と大葬の礼を定めています。従って今日行われた「剣璽等承継の儀」は皇室典範に定められた皇室儀式であり、宮中三殿で行われる他の皇室祭祀と同様、天皇家の私的行事として、内廷費から支出されるのが、日本国憲法の精神に沿うものです。

 しかし今日、皇居宮殿松の間で行われた「剣璽等承継の儀」は、天皇始め皇位継承順位2位の秋篠宮、常陸宮等男性皇族のみが出席、首相、国会議長、最高裁長官、地方公共団体の首長等が列席していました。皇后はじめ女性皇族は列席できない。もし首相はじめ三権の長の誰かが女性の場合どうなるのだろうか、と疑問に思っていたら、この日参列した閣僚の中に片山さつき地方創成大臣がおり、それに反し当然呼ばれるべき小池東京都知事の姿はありませんでした。男女同権が常識になっている時に、このような男尊女卑の行事が国事行為とされることに、違和感はないのでしょうか。しかもその宮中儀式の慣行が、皇族でもない時の首相のご都合で簡単に改変されてしまってよいのでしょうか。

 現憲法下で即位の礼を行う場合には、憲法の精神、とりわけ国民主権と政教分離の原則に合致していなければなりません。しかし三十一年前の天皇即位の時からすでに、大嘗祭等宗教的色彩の濃い皇室行事が国家行事として行われてきました。今後「即位後朝見の儀」で天皇が総理大臣他国民の代表に向かって述べる言葉が、政治色を帯びない保証は何もありません。今日の朝見の儀で天皇は「国民の幸せと国の発展、世界平和を願う」と言われましたが、これを国内、または近隣諸国にいる外国籍又は無国籍の人達はどんな気持ちで聞いたのでしょうか。今は上皇となられた明仁天皇は、その即位の時に先の大戦で命を落とした人達に対する深い悲しみを表明されましたが、今回はそれはありませんでした。もう戦後ではないのでしょうか。隣国では元徴用工が日本企業に対して訴訟を起こし、国内でも相次ぐ災害で打ちしおれている人たちが多数いるのに、そのような時代が過ぎてしまったのでしょうか。

 天皇が公的行事の場で、政治的な発言をする機会は、今後増えるでありましょう。平成時代に 明仁天皇は日本国憲法の規定する「象徴」という言葉にこだわって、自らを律しておられました。退位に際しても、この「象徴天皇」という命題にこだわり、その命題を追い続けておられました。既に自民党が2012年に発表した日本国憲法改正草案には、天皇条項にこの「象徴」という言葉が薄められ、「天皇は日本国の元首であり」という言葉が躍っていますが、そのような政治の右傾化を知ってか知らずか、明仁天皇が事あるごとに「象徴」という言葉を使われたのは、それ自体「政治的発言」ともとれる言葉でありました。それは明仁天皇が父親裕仁天皇の御前会議における「開戦の詔勅」によって、370万将兵、2000万市民が戦死した戦争の惨禍を知り、慰霊のために尽くされたことが背景にあるように思われます。

 今回即位された徳仁天皇は、父君が残された「象徴」を継承するといわれましたが、これに期待するほかはありません。しかし皇太子時代に、戦跡を巡る行幸に同行されたことはなく、年齢的にも戦無時代に生きた人であり、英国留学が彼を第二次大戦に対する認識を深めた形跡もありません。安倍首相は天皇に対する御進講という形でその政治的信念を天皇に伝授することに邁進するでしょう。そして徳仁天皇の融和的な性格がその影響を受け、政治的発言をなさることが起きて来るでしょう。1960年代から自衛隊幹部が天皇に拝謁し、防衛庁長官が内奏する儀式も行われてきました。既に殉職した自衛官は各地の護国神社に合祀されており、これが将来靖国神社で合祀されることもあり得ます。このことから天皇が靖国神社に拝礼する行事も復活する恐れがあり、これが国民統合の象徴としての天皇の国事行為として容認されることになるでしょう。

 1977年最高裁判所は「津地鎮祭違憲訴訟」において、政教分離原則を緩和し「社会的儀礼又は習俗的為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」と判示しました。いわゆる「目的・効果基準」がその後の合祀拒否訴訟に大きく影響し、下級審においても原告敗訴が続出する結果となっていますが、今後、宗教色の強い宮中三殿における皇室祭祀も、国の伝統行事、社会的儀礼として天皇の国事行為とされ、それらが神道行事として行われる限り、政教分離原則を根底から覆し、日本国が天照大神によって創立され、その皇孫である代々の天皇がこれを統治するものとなるのは近いように思われます。こうならないために、私達は今何をなすべきでしょうか。(2019年5月1日)

 

深き淵より

 投稿者:徳永 博  投稿日:2019年 4月19日(金)08時03分40秒
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   教会の本棚にあった「戦争文学全集4」から、大岡昇平の「野火」を読みました。
 著者は1944年応召し陸軍一等兵としてフィリピンに出征、ルソン島サンホセで米軍の捕虜となり、戦後その体験を元に「俘虜記」を書き、注目されました。「野火」はその第2作とも言うべきもので、1944年11月レイテ島に上陸した田村という陸軍一等兵が、米軍に追われ敗走の果てに、ゲリラの襲撃で意識を失い米軍野戦病院に収容された時には精神に異常をきたし、その後復員するも東京郊外の精神病院に入院し、復員船に出迎えた妻とは離婚、家を売って得た個室病棟でしたためた手記の形をとっています。

 「野火」の書き出しに、「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも」という旧約聖書詩篇130篇の1節が出てきます。またその18章「デ・プロフンディス」は、田村が敗走中、フイリピン人の集落で見た教会の白い十字架を前に「われ深き淵より汝を呼べり」De profundis clamavit-という言葉が彼の口から洩れた、それは彼がなお深き淵にあり、聖者でないことを自覚する記事になっています。しかしこの「野火」は、聖書の言葉の香りとは全く似ても似つかない、太平洋戦争末期に著者が戦地で体験した凄惨な事実、飢えてフイリピンの部落を襲い、略奪の果てに住民を殺し、ついには同じように敗走する友軍兵士が殺し合い、その死体の肉を食い生き延びようともがくも、ゲリラに襲撃され意識を失い、蘇生したときには米軍野戦病院の手術台の上だったという記事は、アジア太平洋戦争の実態を、人々により正確かつ公正に伝えようとしたことがうかがえます。

 田村は応召した時既に肺結核を患っており、分隊がレイテ島上陸後、奥地に行軍する途中で喀血し、分隊長から5日分の食糧を与えられ、山中に開設された野戦病院に送られたが、3日後に治癒を宣告されて分隊に戻ったら、5日分の食糧を持って出た以上病院で面倒を見てもらえ、と突き返され、また密林の中を病院へ行き、そこで多くの戦死者の遺体を見、いたたまれなくなってまた分隊へと戻った、という記事で始まっています。田村のいた分隊は、すでに上陸して来た米軍に対して斬り込み隊を編成するほど逼迫しており、喀血して食糧収集に加わることもできない田村は、厄介者とみなされ、また密林への道をたどるのです。フィリピンではこの季節、収穫を終わった玉蜀黍の殻を焼く煙が畑のあちこちに立ち昇り、夕暮れにはそれが野火となって漂うのですが、すでにこのころフィリピンの農民はゲリラ-米軍先遣隊と手を組み、日本軍に敵対していたので、野火に近づくのは危険だったのですが、すでに飢えによって理性や敵愾心さへなくしている兵隊たちは農村の部落へ近づき、食料をよこさない比島人を殺し、またはゲリラに撃たれて死ぬという惨劇を繰り返していたのです。その野火は敗走中の田村に、幾度となく現れます。野を横切り、新しい土の上を歩く田村の目の前に谷が深く嵌入しており、そこに生えた花が食物に見えた時、彼は「野の百合はいかにして育つかを思へ、労せず紡がざるなり。今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、あゝ信仰うすき者よ」という声を聞いて、我に返るのです。
「私は祈らうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に別れていたからである」。

 飢者と狂者の間を行きつ戻りつする最後に田村は、ある夜、火が野に動くのを見ます。「火は、揺れながら近づいてきた。私の方へ、どんどん迫って来るやうに思はれた。私は身を固くした。すると火は突然横に逸れ、黒い丘の線をなぞって、少し上がってから消えた」のです。この肺病病みの1兵卒が綴る狂人日記「野火」が語ろうとした「火」は、何だったのでしょうか。飢者と狂者となった田村に、彼の幼少期、教会の日曜学校で覚えた聖書の言葉を通して、神が田村に語り掛けよう賭しておられたのか、それはわかりません。

  私の家の本棚には、「ルソン戦記 ベンケット道」があります。著者高木俊朗は戦時中陸軍報道班員として、中国、ジャワ、ビルマ戦線に従軍、その体験を元に1982年に、日本陸海軍47万7千人の死者を出したフィリピン戦線の状況を、詳細に記録しています。それを一言でいえば、旧日本軍の指導者たちが皇国不敗の自己暗示から覚めず、基本的には人間の生命についての考え方が、米軍との間では全く相反しており、その結果、日本軍は武器弾薬の不足を、人間の生命をもって補おうとしたのです。それが斬り込み、特攻、玉砕作戦となって現れました。国家と天皇のために生命を捧げることを至上とする国家主義の軍隊が、近代兵器を大量に投入した米軍の前に、旧態依然の玉砕戦法で自滅して行ったのです。

 その頃日本国内では、「比島決戦の歌」という歌謡曲が流行っていて、「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」と、いささか下品な歌唱がラジオから流れるのを、小学校に入学する以前の私達が聴き、好んで唱和していたものです。この歌の作詞者は「蘇州夜曲」で有名な西条八十、作曲者は戦後壮大な鎮魂歌「長崎の鐘」で人々に反戦を訴えた古関祐而です。当時の日本は外地の兵隊のみならず、国内の戦争指導者も、子供を含めた一般市民も、また詩人や音楽家まで、皇国不敗の狂気にとらわれていたのです。

 旧日本軍が今まで述べたような精神主義に陥っていたことの帰趨として、特に海外での作戦行動の場合必要な兵站輸送部門を等閑にし、現地調達という名のもとに戦地で糧食の収奪を繰り返していたこと、それに逆らう住民を虐殺するなど、数々の戦争犯罪行為を重ねていたことは、忘れてはならない事実です。「ルソン戦記」でも米軍上陸前、フィリピンにいた第12方面軍、通称山下方面軍50万の将兵は、糧食の不足を来し、米軍上陸後の敗走となると軍紀は乱れて将官達は飽食しているのに兵士たちは飢え、これが軍紀を崩壊させ、抗命する部隊さえ現れて、日本軍は戦う前に自滅して行ったといわれています。フィリピン戦線の日本軍将兵の死者47万7千人の大半は、敗走中の餓死によるものと思われます。高木俊朗の「ルソン戦記」はそこまでしか書いていなかったのですが、大岡昇平の「野火」は敗走中の兵士たちが、少しでも長く生き延びるために何をしたか、を克明に描いて、戦争の実態はこうなのだ、ということを戦争を知らない我々世代に、絶対に戦争はしてはならない、と訴えているのです。

 「野火」の冒頭、また田村が敗走中の夢の中でつぶやいた詩篇130の「深き淵より」は、戦争の極限状態で彼が実体験した人間の罪のあまりもの深さを示しています。田村の濁った目に映った「野火」が何を意味しているのか、私にはわかりません。そのような深淵に陥った人間を救いうるのは、誰なのでしょうか。
 

コンピュータがパイロットと喧嘩?

 投稿者:徳永 博  投稿日:2019年 4月 4日(木)07時56分37秒
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   去る3月10日エチオピアで起きた旅客機墜落事故は、157人の乗員乗客が死亡する大事故だった。これはアジア、アフリカ等の貧困国でよく起こる中古機の整備不良による事故ではなく、最新鋭のボーイング737Maxによるものである。また、これは昨年10月、インドネシアで起きたガルーダ航空の同型機の離陸直後の墜落事故で、187人の乗員乗客が犠牲になった事故と類似している。

 ガルーダ機の事故の時も犠牲者に日本人がいなかったことで、日本のマスメディアではあまり大きく取り上げなかった。最近アメリカの連邦航空局がこのガルーダ機から回収したフライト・レコーダーを分析した結果、事故機に搭載されていたMCASという機首上下制御装置が、パイロットの操作に逆らって異常な作動をした結果、離陸直後に墜落したという報告書を公表した。恐らくエチオピア航空機も同様のトラブルで、パイロットは指示に逆らって下降する機体をどうすることもできず、墜落するに至ったのではないだろうか。

 ボーイング737型旅客機は、実は「新鋭機」ではなく、1965年に短距離旅客機として開発され、68年欧米の都市間航空路に使用され始めた地味な機体で、その後胴体を前後に伸ばし、エンジンを翼下面に密着させたターボジエットから、前面に大きなファンを持つターボファンエンジンへと換装した結果、翼前面に突き出た形となり、機首上下制御が難しくなって、737Maxになって姿勢制御コンピュータMCASの導入となったと聞いている。一つの旅客機に対してより多くの乗客を、より安い燃費で運ぶという、技術者と企業経営者のあくなき要求が、超えてはならない境界を越え、大事故を引き起こしてしまったのである。元JALの機長で航空評論家の小林宏之氏によれば、パイロットの指示にコンピュータがけんかを売るような形で逆作用をし、パイロットは何がなんだかわからないうちに墜落してしまったのではないか、と言っている。

 コンピュータが人間の意向に逆らって作動するとどんなことになるか、公共交通機関で起きた大量死亡事故が、近未来の危機管理に関わる象徴的な出来事だけに、その後のマスメディアの報道を追っているが、我が国では、インドネシア、エチオピアの事故犠牲者346人の中に日本人がいなかったことに安堵したのか、科学専門誌を除いてはその後の報道はない。
 

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