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横浜市長選と自民党総裁選

 投稿者:徳永 博  投稿日:2021年 9月 9日(木)18時11分35秒
返信・引用 編集済
   先月22日、私の住んでいる横浜市で市長選挙がありました。単なる一地方自治体の市長選挙だったのですが、三選を目指す現職市長のほかに7人もの立候補者があって、その内の一人小此木八郎氏は親子二代にわたっての自民党国会議員で国家公安委員長を務める閣僚級の人物、しかもその親の小此木彦三郎氏の秘書をやっていたのが現職の総理大臣菅義偉氏、このような立派な後立てのある人物が地方自治体の市長に、しかも現職の保守系市長を押しのけての立候補というのも、常軌を逸したことでした。彼は林市政時代に安倍内閣のIRカジノ導入を推進しようとして、横浜市民の約8割が反対しているのを見て、公約に「IRストップ」を掲げたので、IR推進の菅首相と袂を分かったのかと囁かれたのですが、当の菅首相が小此木全面支援を表明したので、国政に追従した林文子市長が政府与党から切り捨てられるという皮肉な結果となりました。

 一方野党立憲民主党が推し共産党も支援を表明した山中竹春氏は横浜市大教授、コロナ専門家ということを売物にし、48歳という若さも市民に好印象を与えたようです。その他に元長野県知事の田中康夫氏、元神奈川県知事の松沢成文氏まで立候補するという前代未聞の市長選挙になりました。結果はIR誘致問題は争点にならず、コロナ対策で「専門家」に対する期待もあって、山中教授が50万票を集め、小此木候補を18万票差で破ることになり、世間をアッと言わせました。私自身は、山中教授がコロナ専門家と称しているのは疑問で、代わりに元長野県知事の田中康夫氏が横浜市政に関して具体的な提案をしていることに注目して田中候補に投票しましたが、IRやコロナという国政レベルの争点で市長選挙が過熱したので、田中氏の地道で具体的な市政改革公約は顧みられなかったようです。

 この選挙の後半、8月に新規感染者数が急増したのを受けての政府のコロナ対策が、中等症感染者の自宅療養という方針転換だったので、疫病対策の基本である「検査―隔離」原則を放棄したものとして、世論の厳しい批判を浴びています。今般政府が打ち出した「軽症感染者は自宅療養」というのは、家族への感染を推進しているようなもので、これが厚労省の医系技官の発想と聞いて驚きます、またそれを鵜飲みにして国策として打ち出す菅首相や田村厚労大臣の見識が疑われます。一方小池東京都知事はパラリンピックに学童の集団観戦を推進していますが、これで感染した児童が家庭内感染源となることは明らかです。パラリンピック観戦の感動は児童や家族の生命より大事なのでしょうか。

 厚生労働省は国公立病院に対して、これらが保有する数千の病床と医療スタッフをコロナ治療専門病床へ変更して感染者を全員収容するように指示すれば、自宅療養などという、家族への感染拡大と重症化への対応が遅れ死者を増やすという愚策を採らずに済んだはずなのに、それをしませんでした。一方でワクチン接種率を上げることによってコロナウィルスへの集団免疫、感染しても重症化が防げるという効果に期待しています。市民もワクチン効果に期待して我先へと接種会場に向かったのですが、最近の知見では2回接種後の人もその後感染していること、ただ重症化して死に至る確率は劇的に減少していることが統計的に報じられています。しかしそれがワクチン接種のためだという確証はありません。 確実なことは、ワクチンというのはコロナウィルス感染に対する予防薬であって治療薬ではないことです。ワクチン接種の進んだアメリカ等西欧諸国で、デルタ株等変異ウィルスが猛威を振るっています。その変異株は東京オリンピック、パラリンピック等で成田、羽田の空港検疫をすり抜けて国内に入り、爆発的な感染拡大を引き起こしています。

 ワクチン接種に関しては、抗原検査の結果、ワクチン接種後抗体が持続的に維持されることはなく、数か月で半減する事例が報告されております。そのように減少する抗体を維持するためには、3度目のワクチン接種が必要とされています。そんなにまでして感染予防、重症化予防をするよりも、初心に立ち返ってウィルスが呼吸器によって体内に入らぬようマスク、室内換気等に充分注意を払うことでウィルスが消えるのを待つしかありません。私は以前コロナウィルスは飛沫感染するが空気感染はしないと聞いて、飛沫防止を徹底してやればよいと、集会等で語っていましたが、今度のデルタ株は、エアロゾルに乗って空中を浮遊し、その寿命が十数分に及ぶことがあるので、換気の弱い空間では感染した人が去った後でもそこに入った人は感染してしまう事例のあることが多数報道されています。現に都会のターミナル駅で、通行人と直接接触のない駅員が感染しているのです。


 菅内閣は去年1月に始まったコロナウィルス感染症対策では、厚労省医系技官の言うまま、常識と真逆な感染症対策しか取れず、国内全土に亘って「緊急事態宣言」を幾度も繰り出し、実効が上がらなくても平然としています。菅首相は冒頭で述べた横浜市長選で大敗しても、次の衆院選で自民・公明が過半数の議席を獲り、自民党総裁選で無投票当選を狙っていると囁かれていました。有権者はそれほど無智なのでしょうか。結果的には横浜市長選の敗北後、政府与党に激震が走り、自民党若手議員の間に菅首相では次の首総選挙では勝てないとの憶測が蔓延し、九月に予定されている自民党総裁選に、菅首相は出馬しないで退陣することになり、この一週間マスコミは騒然としています。今秋に予定されている衆議院選挙では、野党連合が準備不足で政権交代は望めないとしても、自民党は議席数を大幅に減らし、疫病蔓延の最中に政治が混乱する不幸な状態が続きそうです。

 今日9月9日は旧暦でいえば「重陽の節句」、65年前佐高の教室で、国語の江頭太助先生が諸葛孔明の故事を教えながら、土井晩翠の「星落秋風五丈原」を朗々と唄ってくださったことを思い出します。自分は孔明の没年をはるかに超えた今、この歌を低いくぐもった声で、何度も何度も歌う今日この頃です。



 
 

戦争に負けて良かった

 投稿者:德永 博  投稿日:2021年 8月 7日(土)08時40分58秒
返信・引用 編集済
   8月1日発行の週刊誌「サンデー毎日」に「あの戦争に負けてよかった」という表題で作家の吉村昭と城山三郎との対談の模様を、佐高信という人が紹介した記事があり、評判になっています。吉村昭は1990年代「ポーツマスの旗」「戦艦武蔵」など戦記物で異彩を放ち、城山三郎は「落日燃ゆる」で広田弘毅の生涯を描き、「官僚達の夏」で通産省の佐橋滋を書いて好評を博しました。両者はともに1927年生まれ、青年期に太平洋戦争を体験し、作家になって後、2007~8年に死去しており、この対談は1996年頃行われた模様です。

 対談の冒頭吉村が「あの戦争に負けてよかったですね」と問いかけ、城山は「自分は17歳で海軍に志願したから、そうとは言いたくないが、もしあのままだったら、日本は軍人が威張り、警察が威張り、町の警防団長が威張る、大変な国になっていた」と応じていたのが印象的でした。1945年敗戦当時、国民学校1年生だった私も、軍人や警防団長が威張っていた戦前の様子を幾らか知っています。それが8月15日を境にB29の夜間空襲がなくなり、灯火管制がなくなり、学校で奉安殿に最敬礼しなくてもよくなり、講堂にあった御真影や古賀元帥の肖像がいつの間にか音楽室に有ったベートーヴェンやシューベルトと取り替えられていたのを不思議に思ったものでした。大人たちは敗戦を悔しがっていましたが、私達子供は戦争が終わり、暗い夜がなくなったことを、素直に喜んだものです。

 後年、吉村昭の「ポーツマスの旗」を読んだ時‐これは1905年日露戦争の講話条約締結のためアメリカのポーツマスでロシアのウィッテと対峙した外交官小村寿太郎の苦悩を描いた歴史小説ですが―そこで吉村は、日本人が日露戦争でロシアに勝ったと思い込んだのは間違いだったのだ、と訴えていました。日本人はこの「日露戦争勝利」の迷妄からおかしくり、最後には皇国は東亜の盟主と思い込み、1945年8月15日に、ようやくその迷妄から目覚めたのです。

 「あの戦争に負けてよかった」と心から思い、快哉を叫んだのは、当時虚脱状態だった日本人より、植民地だった韓半島、台湾の人達、そして祖国を追われた在日韓国朝鮮人、中国人たちではなかったでしょうか。8月15日を彼らが「光復日」と名付け、天皇、靖国、護国神社崇拝の強制から彼らが解放された日として覚えていることを、今の日本の若者たちは知りません。また戦前、戦中を幼児期として生きた私達が「お国のために戦った、兵隊さんよありがとう」と歌わされ、それを信じ込んでいたのに、実は皇軍は「支那を膺懲する」と称して中国大陸を侵略し、略奪と殺戮を欲しいままにした鬼畜であったと言われても、にわかには信じることが出来ませんでした。しかし例えば古屋哲夫の「日中戦争」(岩波新書302)その他の歴史書を読めば、満州事変、盧溝橋事件から南京占領に至る日中戦争の実態は、中国の内乱に乗じた日本の帝国主義的侵略行為であったことは明らかです。そして我が国は日中戦争の泥沼から抜け出すために南部仏印に進駐し、米英蘭との戦争に突入してしまったのです、それを東亜の植民地解放戦争だったというのは、中国東北部や韓半島、台湾の植民支配を隠ぺいして、大東亜戦争は我が皇国が米英蘭のアジア植民地支配に対して已むに已まれず立った義戦だと言い張るのは、姑息な歴史歪曲にすぎません。

 我が国の戦後の歴史教育がこのような歪曲を繰り返した結果、途中から変質していったことはあきらかです。冒頭に述べたサンデー毎日の記事に関して、戦争を知らない子供たち世代の若者たちから、「戦争に負けてよかったとは何事か、靖国の英霊を冒涜する言辞だ」と吉村に投げつけるべき非難を、それを紹介しただけの佐高信に浴びせかけたそうです。我が国の将来を担う若者たちがこのように変質してしまったのです。これでは韓国や中国の若者たちとの対話の場がなくなり、ぎすぎすした外交関係が何時までも続きます。

 戦後の教育基本法の下で平和教育の恩恵にあずかった私達の世代は、次の世代に「あの戦争に負けてよかった」と心から言える人になってもらいたいと教える必要があります。去年日本学術会議会員任命拒否で名指しされた加藤陽子東大教授が「それでも日本人は戦争を選んだ」という書物の中で鋭く指摘していることですが、1905年日露戦争に勝利した日本が、「萬蒙は我が国が二十億の資材と二十万人の死傷者により獲得された権益」と称して、その5年後韓国を併合し、1919年3月高宗逝去を機に韓国全土で起こった三・一独立運動を武力で弾圧する挙に出ます。同年4月水原郡堤岩里村で耶蘇教会で三十余名を殺害し会堂を焼棄した事件は、朝鮮総督府の支配と弾圧が如何に残虐なものであったかを示しています。加藤先生は栄光学園の高校生に5日間にわたって我が国の近現代史を講義した記録がこの本の下敷きになっていますが、もしこれに中国人や韓国人高校生が加わっていたら、同世代の若者たちの間で国境を越えた対話が始まり、彼らの歴史認識はさらに深まっていたことでしょう。

 近現代史に於いて、第2次大戦の勝者であったアメリカが、いつまでも覇権国家ではありえません。清朝滅亡後の内紛の最中に日本の侵略を許した中国が、今アジアの覇権国家として太平洋を挟んでアメリカと対立しています。台湾を巡っての覇権の争いが燻ぶっていますが、もし中国とアメリカが戦火を交えるような事態になれば、韓国や日本はその狭間で滅び、地球環境は核戦争の結果完全に破壊されて、生物の棲む所ではなくなってしまうでしょう。2019年安倍内閣が閣議決定だけで決めた安保法制など、絵空事にすぎないのです。私達が為すべきことは、アメリカの核の傘の下で日米安保体制を維持し国の安全保障を図るのでなく、隣国との対話の道を開いていくことしか、生存の道はありません。
 そうならないためには、私達日本人が靖国史観に頼ることなく、1945年8月我が国は本当に「戦争に負けてよかった」と思い、その反省から再出発することが必要だと、敗戦から76年目の夏に、心から思う次第です。
 

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佐高八期会掲示板の終了予告

 投稿者:管理者 石井俊雄  投稿日:2021年 7月15日(木)14時47分15秒
返信・引用 編集済
  標記の件、去る2009年3月29日に、「無題」のタイトルで筑波山ハイキングの案内記事を掲示して以来、現在まで、12年余に亘って、掲示板を維持してきましたが、この度、閉鎖することといたしました。
理由は、管理者たる小生も、寄る年波には勝てず、衰えを感じ、維持管理が負担になってきたためです。
閉鎖予定は、2021年9月30日をめどとしています。
永い間、投稿、閲覧頂き感謝しています。
何卒、ご了承のほど、お願いします。

なお、佐高八期会ホームページは、従前通り継続いたしますので、よろしくお願い致します。
 

海は誰のものか

 投稿者:徳永 博  投稿日:2021年 5月11日(火)15時30分11秒
返信・引用
   今年の3月11日、テレビで福島津波被害10周年特集を放映している中で、石巻漁港から津波で流失した漁具のいくつかが海流に乗ってアラスカやカナダ西岸に達し、それを拾った住民が、その漁具に描かれていた文字を頼りに、これを元の持ち主に返すために訪日し、石巻の被災家族を訪れて友情を育むというドキュメンタリー番組がありました。これは津波によって持ち主から奪われた生活用具が還ってくるというので美談になりますが、これが今課題になっている廃棄プラスチックでは、漂着先の住民には迷惑がられますし、野生動物や魚類には危険物になりかねません。ましてや目に見えない放射性物質を含んだ海流が沿岸に押し寄せるとなると、それは国際的な犯罪行為というべきでしょう。

 去る4月13日、菅内閣は福島第一原子力発電所の敷地内にタンク貯蔵されている原子炉冷却汚染水を希釈処理して海洋投棄することを閣議決定しました。2011年3月の事故以来増加し続けていた高濃度汚染冷却水は、最後に除去できなかったトリチウム含有量を国際原子力機構IAEAが許容する基準値まで希釈したうえで、太平洋に投棄するというのです。当然福島県漁業組合等の反対を押し切り、またいわゆる風評被害については東電が補償するとの確約を付けての措置だと政府筋は説明しています。そうして東京電力が事故後2011年の事故後10年間敷地内に大容量のタンクを約千器も並べて貯蔵してきた160万トンの汚染水を、貯蔵が限界に達したので、順次海洋投棄してしまおうという魂胆の様です。40年前の電源立地の時から、原子炉の二次冷却水は海水を利用し、そのために福島県の浜通りの太平洋岸に設置したのだから、事故後の炉心冷却水を、放射性物質が許容値まで希釈されれば、海洋投棄しても、海洋汚染や漁業に影響はなかろうというのは、まさに政治的判断そのものです。菅首相はじめ閣僚たちは,先達が犯した足尾鉱毒事件、水俣病の被害を忘れているのでしょうか。そこに多くの人が関わっている河川や海洋は、異物を放流して汚染しないことが原則で、とりわけ生物系への影響がまだよくわかっていないトリチウム等放射性物質については慎重な取扱いが必要で、そのためのタンク備蓄であったはずです。

 政府が私達に見せてくれる福島第1原子力発電所の敷地内には千基以上のタンクが立錐の余地が無い程並べられ、さらに廃炉作業で発生する高濃度汚染水の備蓄のために、この10年間備蓄された汚染水はそろそろ海洋投棄しても良いではないか、と思わされがちです。まさに菅内閣は電通などマスコミを動員してタンク群の映像を殊更に映し出す世論操作で、私達を誘導しようとしているのではないでしょうか。それがどのような災害を次の世代にもたらすかを考える時に、私達は決して菅政権の暴挙を許すことはできません。

 ここで海洋投棄の非科学性を論じても仕方がないことで、そのような原因を造りださないためにも、汚染水の海洋投棄は行うべきではありません。しかも最後に残ったトリチウムは分離不可能では決してなく、2016年に経産省がロシアのロスアトム社の水・トリチウム分離プラントを用いて実証実験をした結果、99%のトリチウムが分離できたそうです。そして電力中央研の常盤井守泰氏によれば、分離後のトリチウムは固形化して鉛の容器に収納し保存することが可能だと言われています。難点はコスト高で福島の汚染水を処理するのに約34億円の経費が掛かるようです。経産省はこのコスト高を理由にロスアトム社の技術を採用しなかったと言われています。その外にも、政府としてロシアや中国の技術を採用したがらない傾向があることは、コロナウィルス・ワクチンの選択においても明らかです。

 早速中国政府がこの日本政府の閣議決定に反対の声明を出しました。韓国、北朝鮮、台湾、フイリッピン、オーストラリア、ニュージーランド等環太平洋の海洋国家は挙って異を唱えるでしょう。環境汚染問題に厳しいカナダやアメリカの環境保護団体も黙ってはいないでしょう。近年地球環境を保護しようという国際世論の高まりに抗して汚染物質を海洋投棄することは、船舶の座礁や沈没事故は仕方ないこととして、これらを除いて故意に汚染物質を海洋投棄することは、決して許容されることではありません。今から4年前東京五輪開催が決まった時、安倍首相は記者団の質問に答えて、福島はUnder controlと言ったそうですが、それが真っ赤な嘘であったことを証明して見せることにもなるでしょう。

 昨年9月に発足した菅政権はその直後に起こした日本学術会議会員任命拒否をはじめコロナウィルス禍対策の遅れ、東京五輪開催への執着、日米首脳会談の失敗等、失政続きの様相を呈しています。その結果が、先月24日の北海道衆院議員補選,長野参院議員補選、広島参院議員再選挙で政権与党が何れも敗北するという無様な様相を呈しています。特に保守の強かった広島で自民党若手候補者が野党連合の新人に敗れるなど、明らかに安倍政権時代の金権政治が飽きられ、保守的で共産党に対して嫌悪感さえ持っている市民が、次善の選択として野党連合候補に投票したとしか思えません。しかし野党連合が近く行われる予定の衆議院議員選挙で自民党を打ち破り政権交代を果たす可能性は、人々が期待する程高くはありません。それは先の2つの補選及び広島の参院議員再選挙で有権者が示した投票率の低さで推測されます。30%程度の投票率で野党連合が勝利したとしても、与党議員のスキャンダルが忘れ去られれば、国政選挙はまた保守勢力が動員する群衆によって元通りの自公の候補者が小選挙区の勝者となり、汚染水垂れ流しの政治が続けられることになるでしょう。2013年第2次安倍政権発足以来、我国は「美しい国」になるはずが、他国から鼻つまみものの存在になりさがってしまったのでしょうか。
 

1945年7月10日の澪つくし

 投稿者:徳永 博  投稿日:2021年 3月25日(木)10時22分45秒
返信・引用 編集済
   1945年7月10日未明、銚子の街を襲った90機のB29と艦載機の爆撃が、江戸時代紀州から300年続いた醤油屋「入兆」の蔵を焼いた。それを目撃して防空壕から飛び出してきた12代当主・坂東久兵衛と妻るいは、艦載機の機銃掃射により殺戮された。後に残された娘の梅木かをるは------。

 今朝NHK BSで放映された朝ドラの昭和60年リバイイバル版「澪つくし」第157回で、ジェームス三木が描いた銚子大空襲の模様である。この朝ドラには、主役「かをる」役に沢口靖子が出演し、しかも昭和60年に放映されたものだから、35年も前の若々しい姿で拝見できると、このホームページ幹事石井君が絶賛していたので、美人好きでは彼に引けを取らない私も、毎回テレビ液晶画面に食い入るように鑑賞していたのだが、この銚子大空襲の場面では調子が狂ってしまった。その頃群馬県前橋で空襲を体験した桑原峰征君には先に逝かれてしまったが、同じ1945年夏のB29空襲体験をした仲間だったので、この「戦略爆撃」憎しの思いがさらに募ったからである。

 1930年代から従来の戦争の常識を覆す、航空機による戦略爆撃の思想がどの様にして生まれ、常道化して行ったかは、前田哲男の「戦略爆撃の思想」(2006年凱風社)に詳しいが、そこで取り上げられている三つの出来事、ゲルニカ、重慶、広島の内、後の二つには、私達日本人が深く関わっている。重慶には加害者として、そして広島には言うまでもなく被害者として。

 重慶爆撃は1939年末から中国武漢に進出した日本海軍航空部隊が、蒋介石の国民党が立て篭もる首都重慶に対し、1年余に及ぶ爆撃を繰返したことで知られている。井上成美、大西滝治郎、山口多問等の指揮で九十六式陸攻,零戦等が出撃し、無差別爆撃により、重慶市民約10万人が死傷し、蒋介石は屈服しなかった。そして南方から重慶を支援する援蒋ルートを断つために日本軍が南部仏印に進駐し、これが太平洋戦争の契機となったことも、私達が良く知っている史実である。

 重慶に続く広島では、私達は多くのことを知り、また語っている、それは冒頭の銚子爆撃の時と同じく、被害者としての観察であり、被爆体験である。それらの悲劇は再び繰り返してはならない。

 爆撃機の搭乗員たちにとっては、敵国都市への戦略爆撃は、戦争ミッションの履行でしかなく、彼等が落とした焼夷弾や原爆の下で、どのような地獄絵が展開されていたかは、知る由もなかった。それが被害者の側に悍ましい憎しみを燃え立たせ、B29搭乗員を対象にした九大生体解剖事件のような鬼畜行為さえ生んだ。これら被爆体験を私達日本人が声を大にして、世界に向けて語らなければならないが、同時に、ゲルニカや重慶で同様に被爆体験をした人達が居たことも忘れてはならない、特に重慶の悲劇は私達の父祖が加害者として関わっていることを忘れてはならない。
 

桑原峰征君の死を悼む

 投稿者:徳永 博  投稿日:2021年 3月18日(木)22時12分46秒
返信・引用 編集済
   今日石井浩四郎君から電話で、桑原峰征君が逝った、と知らせがあった。桑原君は元来病弱で近年も生死の境を彷徨うような大手術を幾度も経験していたから、心配はしていたが、コロナウィルス禍が1年以上も続く中、とうとう逢わず仕舞で、彼は我々を置いて、さっさと他界してしまった。

 桑原君が我々の前に颯爽と現れたのは、終戦直前の8月5日前橋の大空襲で焼け出され、母方の郷里である佐賀に疎開して来てから数年経ってからだった。戦後しばらく教育者の父君が附小の校長をしておられたとか、彼は秀才の誉れ高く、附小から附中へ進級してきた時に、市の委託学級枠で辛うじて循誘小から附中に入学を許された私が彼の姿をあおぎ観た時だった。目の覚めるような都会っ子が、軽快洒脱な物言いで、田舎者の我々を煙に巻いたことを思い出す。しかし卒業時には、彼は佐高には行かず都会へ転校して行き、その後東大を経て三井物産に入社した。

 1986年若王子マニラ支店長誘拐事件の時、彼は秘書室長として事件の収拾に当たった、その時三井物産が多額の身代金を支払ったことが批判され、彼の心労は大変なものだったと推測する。その後附中関東同窓会で彼に逢っても、事件のことは一切口にしなかったし、我々もそれを避けた。酒宴での彼はいつも陽気で、一流会社員らしくない御茶目な語り口で我々を和ませた。正確な日付けは忘れたが、附中同窓会で寸劇「金色夜叉」をやった時、私が弾くバイオリンの音色がのこぎりの目立ての様だと彼が批評したので、私は憤然として「君は僕の天敵だ」と言い、その後猛稽古をしたために、今では団地の敬老会で重宝がられるまでになった。

 この音色をもう一遍桑原君に聴かせたかったのだが。そして彼が何と言うか聞きたかったのだが。2018年のある日、私はこの「のこぎり」を抱えて彼を荏原の御宅に訪ねたのだが、彼はその時も顔色が優れず、玄関で挨拶しただけで辞去してしまった。それが彼との永久の別れになってしまった。
 

「ミアナムニダ」

 投稿者:徳永 博  投稿日:2021年 3月13日(土)16時38分4秒
返信・引用
   1923年9月関東大震災の時、何処から流されたのか「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマに唆された自警団が東京や横浜で5千人に及ぶ在日韓国・朝鮮人を虐殺したことは、我が国の近現代史の中の一大汚点として、私達が記憶しておかなければならない史実です。
去る2月10日金伝道師歓迎会の時の挨拶で、鶴見警察署の大川常吉署長が、自警団の暴力から31人の韓国、中国人を保護した話をしましたが、その話は数日前パソコンのyou tubeで知ったエッセイスト朴慶南さんの話から聞きかじった断片的なものでしたから、より正確な証言や記録を元に、私の住んでいる横浜で80年前に起こった出来事を書きとめておこうと思い、パソコンで歴史的事実を確認したり鶴見区の高漸寺の石碑等を訪ねて来ました。それは教会の近くの烏山神社でも起こったことですから、歴史が風化しない間に史実を確認すると共に、知人や私達の子や孫にも言い伝えておかなければならないので、文書にしておきたいと思いました。

 1923年9月1日午前11時58分に関東地方を襲った大地震は、丁度昼餉の時刻で各家庭に炊事の火種があったために各所で倒壊した家屋が火災を起こし、逃げ惑う群集が江東では本所の被服廠跡の広場等に雪崩れ込み、迫ってきた火炎が群衆の運んできた家財に燃え移って数万の避難民が焼死したり、当時少なかった隅田川の橋を渡って逃げようとする群衆がせめぎあい、橋から転落して溺死する者が跡を絶たなかったと言われています。そのような中で内務省は戒厳令を発令し、首都圏の各警察署に通達した文書中に「今時ノ震災二乗ジ不逞鮮人ノ妄動アリ」と、震災の混乱の中で朝鮮人が放火や毒をまく行為を行う恐れがあると内務省当局者が認識していたようです。大阪朝日新聞は9月3日付け号外で、「目黒の工廠に朝鮮人が放火し爆発事故が起きた」と報じていました。このように警察やマスコミが煽動して流言蜚語が飛び交い、被災民の中に自警団が組織され、朝鮮人と思しき者を捉えては誰何し、濁音の出来ないもの、言葉の不自由なものを捕らえては虐殺する行為を働いたのです。そのような杜撰な人種判別で朝鮮人だけでなく東北出身者や聾唖者が見境もなく殺されました。それは火災を免れた東京牛込をはじめ京浜川崎、埼玉県本庄にまで及び、その数日で首都圏内で官憲や自警団によって殺害された者の数は、東大吉野作造教授の調査で2,613人、他の推計では5千人を超えると言われています。この機に乗じ大杉栄夫妻と甥が甘粕正彦憲兵大尉によって虐殺され遺体が井戸に投げ込まれる事件も起きています。震災による犠牲者は10万人を数えますが、人災による犠牲者が多数含まれていたのです。

 震災直前、横浜警察署鶴見分署に所長として赴任したばかりの大川常吉は、署内に保護した朝鮮人27人中国人4人を、引渡しを要求して分署に押しかけた自警団を含む暴徒から守り、翌日船で彼らを神戸まで送る措置をしました。後日この事を知った在日朝鮮人有志が大川署長に感謝状を送り、また震災後30年経った1953年、在日朝鮮統一戦線(後の朝鮮総連)が大川の菩提寺である鶴見東漸寺に顕彰碑を建て、それをエッセイストの朴慶南さんが著書「ポッカリ月が出ましたら」(1992年)で紹介し、多くの人に知られるようになりました。中には「新しい教科書をつくる会」の藤岡信勝東大教授等が、優れた日本人の一人として、大川常吉を顕彰していますが、そこには「朝鮮人蔑視」「自警団による朝鮮人虐殺」という肝心なことが抜け落ちています。

 1995年韓国ソウルのある病院長が朴慶南の著書を読んで、彼女と大川の子孫がいれば彼らを招待して、講演会を催しました。朴さんの講演の後,紹介されて立った常吉の孫、大川豊さんは、「祖父は、皆さんに褒められることではなく、人間として当たり前のことをしたまでです。震災の時、日本人は朝鮮人に対して悪い事をした」と言い、ソウルに来る旅の途中で朴さんから習ったハングルで「ミアナム二ダ」と言って頭を下げたそうです。

 2019年、戦時中強制連行で重労働に従事させられた徴用工に対し、八幡製鐵、三菱重工業が補償するように求めた韓国大法院判決に対し、日本政府が1985年締結された日韓請求権協定に違反するとして反対声明を行い、当時の河野太郎外務大臣が南官均駐日韓国大使に対して「極めて無礼」と発言して話題になりました。こんな騒動の前に、新日鉄や三菱の経営者が先輩達の差別的な労務管理について反省し、元徴用工に対して一言「ミアナムニダ」と言っておれば、日韓関係がこれ程こじれる事はなかったはずです。河野大臣の父親である河野洋平氏が内閣官房長官時代、1993年従軍慰安婦に対し謝罪の談話を発表したことは、息子太郎氏には伝わらなかったのでしょうか。新日鉄や三菱が元徴用工の老後を支える、企業にとっては僅かな補償金を出し渋ったために、それ以上に彼らが同胞の過去の罪悪に対して全く謝罪する気持ちが無いばかりか、企業の先輩達が犯した罪悪は自分達には無関係だと開き直ったことが、両国の政治外交、経済関係に与えた損害、また世界中から日本が非難されることで受けた有形無形の損失は、計り知れないものがあります。今原告弁護団は大法院判決の履行を求めてソウル地裁に三菱の特許権、商標権の仮差押を申請して新たな法廷闘争が始まっていますが、こんな泥試合を延々と演じるより、被告三菱が元徴用工の謝罪と補償要求を容れて、何がしかの金銭を支払っていれば収まる事でした。ちなみに三菱の商標権は、わが国では明治期岩崎弥太郎が「スリーダイヤモンド」の商標権を取得して以来、三菱は韓国を含む世界各国にこの商標を登録しており、算定できない程価値があるとされています。これが韓国内で一時的でも無効と見做されれば、三菱にとっては莫大な損失になるので、もし私が代理人であれば、日本政府が外交問題にする前に決着を付ける選択をするはずです。

 そもそも一日本法人を相手とした元徴用工補償裁判に、日本政府が1985年日韓請求権協定を理由に介入してきたこと自体、個人間の請求権行使はこれに含まれないとしてきた従来の解釈を変更したものです。本来なら新日鉄、三菱と言う一私企業は、元徴用工だけを裁判の当事者にしているべきだったのに、訴訟当事者外の日本政府がこれに介入したために、日韓外交関係にまで発展し、韓国国会議長が「天皇謝罪」まで持ち出して、天皇好きな日本人の感情を逆なでしている始末です。これは両国民にとって決して好ましい事ではありませんし、日本人の間に関東大震災の時に露呈した韓国人蔑視をまた芽生えさせ、増長させることになります。私達は過去に、国内や韓半島、中国東北部で、父祖達がどのような罪を犯したか、正しく認識する必要があります。

 先日福岡の友人から送られてきた「正義なくして平和なし-韓国人強制徴用の歴史と今日の課題-というパンフレットには、戦時中徴用工として九州の端島や筑豊、北海道芦別等の炭鉱で過酷な坑内労働を強いられた韓国人達の写真や証言が載っています。この端島炭鉱は英人トーマス・グラバーが開発し、岩崎弥太郎が譲受けた髙島炭鉱の端に位置し、良質の強粘結炭を産出するために、明治以降昭和30年代まで、北九州工業地帯の製鐵製鋼業で重宝され、そのため三菱は島全体をコンクリートで固め,立坑施設と鉱員アパートを林立させ、軍艦島の異名を取る程になっていました。私も学生時代1960年夏にこの端島を見学する機会があり、立坑をリフトで500m程降り、急傾斜の炭層の切羽を観たことがあります。強靭な支保工で支えられた地下空間での採炭でしたが、これ程の鉱山保安対策の無かった戦時中には、落盤やガス爆発で多くの犠牲者が出たそうです。このように危険な採炭現場には、多くの徴用坑夫が日本人より安い賃金で働かされ事故の犠牲になって死傷しても、補償されることは無かったのです。近年わが国の産業遺産として、この端島炭鉱を富岡製糸などと並べて保存する動きがあるのですが、そこで繰り広げられていた徴用坑夫の過酷な労働の実態が甦らされ、経営者の謝罪が添えられるのでなければ、何の意味もありません。そのような意味で、「正義なくして平和なし」というパンフレットは、私達の父祖が犯した罪悪を甦らせることによって私達日本人の不義を告発し、断罪するものです。私達は個々人の父祖達の事跡を検証するとともに、もしそれが人道的に間違ったことであるなら、素直に謝る必要があります。そこから韓半島の人々と私達の、平和を愛する人々の友人としての交際が始まるのです。

 私が幼少の頃、母は私に「負けるが勝ちだよ」と教えてくれました。太平洋戦争の忍耐期から戦後の食糧難時代に7人の子供を育てながら、横暴な父にも仕え、尽くすことのみに生きた母の処世訓は、「負けるが勝ち」だったのです。河野太郎大臣も、韓国大使に対して「極めて無礼だ」と叫ぶ前に、一度この格言の意味を考えてはいかがでしょうか。
 

女医「明妃傳」

 投稿者:徳永 博  投稿日:2021年 2月 4日(木)08時27分32秒
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   去年暮れからテレビのBS11で連続放映している、ある中国ドラマを興味深く見ています。
それは中国明代中期、ある武官の家の一人娘が女医として成長して行く物語で、当時の宮廷医局である太医院、また当時農村を襲った疫病を通して、妖術を含む民間医療がどのようなものだったか、正確な時代考証に基づく劇画が50話に亘って展開されています。今週水曜日でようやく23話迄行ったところですが、少しその物語を紹介してみたいと思います。

 代々医師の家系に育った允賢という娘が、父抗鋼の名代で宮廷の宴会に行った時、皇帝の諜報機関東廠の放った刺客に追われる皇帝の弟成王の怪我を治療したことから、この物語は始まります。允賢の祖父は元は宮廷の侍医だったのですが、宮廷内の陰謀で自害に追い込まれ、以後家名も「譚」から「抗」ヘと改姓され、父抗綱は武官となります。允賢の兄は早世し、医師の絶えた抗家では医学は禁忌となります。しかし祖母が密かに夫の遺した医学書を允賢に伝授し、彼女は医師でないのに親戚知人の顔色を観て病気を言い当て、薬の処方をするまでの才能を発揮します。

 ある時祖母に乞われて父の上司徐将軍の夫人を診察し処方した薬が、徐夫人が他に飲んでいた薬と合併症を起こし彼女が死亡する事件が起き、允賢は投獄され順天府による裁判が始まります。この裁判は現代の医療裁判と同じで、当時の医学会の最高権威太医院から医師が派遣され、裁判に参考意見を述べこれが判決を左右することになります。第6話で展開される順天府による裁判の審理では、女性が医薬に携わることを嫌う太医院程院判の陰謀で偽の証言がなされ、允賢は有罪になりかかるのですが、そこに東廠の局長王振が現れ、允賢の呉れた医薬で快癒したが彼女は代価を求めなかった、つまり彼女は医者ではない、彼女の処方も医者としての処方ではないから彼女は無罪という詭弁で裁判を終わらせてしまいます。父鋼は娘が悪評高い東廠長官と懇意だと疑い、自宅の一室に允賢を監禁するのですが、祖母の計らいで永慶庵という尼寺の静慈師太の元に預けられます。この師太は元皇后で,若い皇帝が時々永慶庵を尋ねて来るのですが、この皇帝朱祁鎮は以前から大商人劉斎と偽って允賢と会って親しくしていたので、部下の東廠長官を順天府に遣わして允賢を死罪から解放したのも、彼の采配によるものでした。そして劉斎は允賢に恋心を抱くようになります。允賢は皇帝の弟成王からも慕われており、中国や韓国ドラマで定番の「恋のトライアングル」が展開されていきます。

 この頃都下に疫病が流行り、永慶庵は流民のために門戸を開き、允賢は搬入された疫病患者のために不眠不休で看病に当たります。静慈師太が甥の皇帝に要請し、太医院から数人の医師が派遣され、最初彼らは女性である允賢の医療行為を激しく非難しますが、疫病患者達が允賢の薬草治療により快癒して行くのを見て、共に疫病対策を進めることになります。そして疫病収束後,允賢は皇帝からその功績を称えられ「郷君」の称号を授与され、父抗綱も田畑を賜う栄誉に浴します。

 しかしこれを妬んだ徐将軍が抗を偽の辞令で誘き出し、舟に乗った抗一家を刺客に襲わせ、父抗綱は難を逃れるものも、允賢は河に落ち行方不明となります。抗家では邸宅内に墓を建て、一家は故郷に引退して住まうことになります。ところが允賢は生きながらえて江南へと流され、旅芸人の一座に救助され、そこに居た王道士から「医食同源、医薬は食事同様組み合わせが大切」という事を学びます。数年後都に復帰した允賢は、皇太后の病気治療に応募した民間医師と共に医婆の姿で宮廷に入り、太医院を含め多くの医師達が我儘な皇太后に退けられる中、女性である有利さから直接の脈診を許され、同時に頸部の腫れも見つけ、皇太后の病気が心因性であることを見抜き、処方に薬膳料理を提供し、当時医学会では廃れていた祝由(妖術)を使って、皇太后の病を快癒させる功績を挙げます。その時皇帝は御薬房司薬(所長)の奸計で罰を与えられ失神した允賢を助け、そこで彼が大商人ではなく皇帝だったことが允賢に露見します。皇帝は何食わぬ顔で、允賢が宮廷に留まれるよう太医院の試験を受けることを奨め、永慶庵で共に疫病治療に当たった安寧医師を指南役に付けるなどの便宜を計らいます。そして允賢の試験勉強中に宮廷にやって来た成王を、允賢付の女官が「燕雀安知鴻鵠之志哉」と言って、恋心に狂う皇帝の弟君を追い返した場面は痛快でした。これは私が高校1年生の時、犬塚先生に習った漢文の教科書に載っていた「史記」の一節であることを思い出したからです。

 允賢は太医院の筆記試験を見事合格するも、実技の鍼試験で程院判の姦計で被験体が人形ではなく成人の裸体を用いることになり、允賢が躊躇するのを、傍で見ていた劉院判が允賢を自分の弟子にして医学の勉強を続けさせると宣言して、男性だけの太医院から彼女を引き離し、医師になる志を育てて行くことになります。允賢はやがて六品の司薬として御薬房に勤務し、太医院では婦人科、祝由を専攻して医師としての道を邁進して行きます。

 このドラマは10年前韓国KBSが放映し日本でも評判になった「大長今」と比較して、女性が差別されていた時代に、才覚と努力によって男性を凌ぐ業績を挙げ、医学会最高の地位に上り詰め、又は多くの人に慕われる女医となる人の伝記として類似しています。また同時に、李王朝期の韓国や明代の中国の医術が「仁術」と称し、現代の西洋医学より遥かに優れたものを持っていたことを知る機会ともなります。それは「明妃伝」によれば「医食同源」であり「祝由」すなはち心療医学、精神科の元になるもので言い表わせます。

 現代医学は医薬と手術によって代表されます。人が病気になり医者通いをし、或いは病院に入院すると、医師は施薬や手術によって患者から病魔を追い出そうとします。近代医学はそのような治療の効率化を追及して来たと言っても過言ではありません。それは癌治療のように外部から人体深く入り込んできた病魔に対しては有効かもしれませんが、内在する精神の疾患に対しては無力です。強い薬剤を処方されて反って脳の機能が低下ないしは毀損してしまった例を、私達は幾つも知っています。

 中国宗代までは盛んだった「祝由」が元代に廃れ、明代の太医院13科の最後に名前だけは残っていても誰も祝由を施す医師はいませんでした。女医允賢は中国医学史初の女性医師だっただけでなく、明代に祝由として心療医学を甦らせたという意味で、東洋医学史に名を残す人だと言えましょう。それは彼女が、当時太医院の医師として権勢や名利を求めるのではなく、皇室の人達であれ庶民であれ時には疫病に苦しむ農民達であれ分け隔てなく医術によって患者に平安と気力を甦らせるために、何でもするという生き方によるのだといえます。またその当時の医学界では宋代に編纂された「素問」「難経」「諸病源候論」「脈経」「傷寒論」などが必読書とされ、御薬房の司薬となってからは、劉師に「千金方」を読解せねば追い出すぞと脅かされています。それ程明代の医師の教育カリキュラムは充実し、数十人の若手医師が競い合っていたのです。

 下って20世紀初頭にアメリカのカリフォルニア州立大学バークレイ校を卒業したロバート・コー二ッシュという科学者が、死者の蘇生ということを志し、死んだ動物をシーソーに乗せ、それを上下に揺らす事によって体内の血液循環を起こさせ、肺と胃腸との間の横隔膜を上下動させ、心臓を再鼓動させる実験を繰り返し、5番目の動物実験で、ラザロ5と名付けた犬を蘇生させることに成功しました。彼は一連の実験を論文に残さず、新聞記者を実験に立ち合わせ、新聞発表させることによって、実験結果を世に公表し,一時はフランケンシュタインの再来と全米で評判になりました。コーニッシュは次にこれを死刑囚の処刑直後の人体で実験しようと、当時ガス室での死刑執行を行っていた中西部の3州に申請書を出したのですがいずれも却下され、大学も彼を解雇します。逆に彼の実験に興味を示し,異聞が検体になると申し出た人も現れたのですが、もし蘇生した場合、楽な余生を送りたいと多額の金を要求し、結局彼はそれを諦め「マッドサイエンティスト」との汚名を着せられ、47歳の若さで死去したと伝えられています。彼が蘇生実験の過程で発見したヘパリンで血液凝固を押さえることや鼓動を止めた心臓マッサージ法は現代医学では輸血やAEDに活用されていますが、彼の名前が出る事はありません。

 允賢やコーニッシュが残した事績と、現在わが国の最大の課題である新型コロナウィルス感染で政府専門家会議の医師たちとを比較すると、医師や科学者としての矜持は何処へ行ったのか、疑問視せざるを得ません。彼らは国内における感染者数の増加で首相に「緊急事態宣言」を要請しただけで、閣僚も宣言はしたものの緊張感は全くなく、銀座の高級料理店で開かれる大勢の宴会に行く始末です。数日前永田町の自民党本部で一斉PCR検査が行われたそうですが、政府や与党の職員が国会答弁の原稿作業に追われ、疲労して深夜盛り場に繰り出して憂さを晴らすので、感染が拡がっているそうです。一方感染者の治療に当たっている医師や看護師も疲労困憊の末に、同様の危機に陥っています。医療崩壊どころか政治経済、社会の至る所で、心の病が蔓延し、コロナウィルスの跳梁を許しています。今ワクチンの摂取が唯一の解決策のように宣伝されていますが、たとえ病魔が一時的に抑制されても、根本的な解決にならないことを、私達は認識すべきでしょう。
 

「昭和史」に学ぶ

 投稿者:徳永 博  投稿日:2021年 1月14日(木)08時37分46秒
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   もう80年以上前のことになりますが、我が国の新聞や雑誌に「暴支膺懲」という言葉が躍ったことがありました。高校の歴史教科書にも載っていたことを思いだします。その少し後に、近衛文麿首相が「爾後蒋介石を対手とせず」と言った言葉と共に、私がこれを学んだ高校生の頃から、忌まわしいものとして記憶の隅にへばり着いていました。

 最近半藤一利の「世界史の中の昭和史」を読んでいたら、その2つの言葉が歴史に刻まれた時代的背景が詳細に解説されていて、高校の教科書で学んだこととは少し違った視点から、私が生を享けた頃の我が国の歴史を見直し、それが21世紀の我が国のまつりごとや社会の動向にも脈々と受け継がれていることに、驚きを禁じ得ませんでした。
 「暴支膺懲」という言葉は、1937年7月中国北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍との間で銃撃戦が行われた時、近衛内閣は当初不拡大方針で臨んだのに、関東軍参謀副長の今村均大将,富永恭次大佐、田中隆吉中佐等若手参謀が「一撃」や「膺懲」という言葉を使って中央を扇動し、閑院宮陸軍参謀総長が帷幄上奏という形で直接昭和天皇に派兵を奏請して、政府が画策した停戦協定を無視して戦火拡大が図られた時に使われた言葉です。当時のマスコミもこれを煽り立てて、新聞紙上に「支那を膺懲せよ」の文字が躍るようになったのです。そこに当時の日本人の中国観が表わされています。

 古来中国は我が国の学ぶべき師匠でありました。政治経済のみならず学術、技芸、宗教等あらゆる分野に亘って我が国の民は中国の文化を摂取することに熱心でありました。二百年以上に亘り鎖国した江戸時代においても、李氏朝鮮のように朝貢国になることはなかったものの、支配階級の精神的支柱は中国伝来の儒教でした。それが急変したのは幕末の1820年当時眠れる獅子と呼ばれた大清帝国がアヘン戦争に敗れ、南京条約で香港を英国に割譲するという事件が起きた時、西欧列強のアジア侵略に怯えるとともに、彼らに易々と屈服してしまった中国に対する蔑視が生まれたようです。1868年の明治維新で我が国の為政者がとった政策は「脱亜入欧」でした。急速に西洋の文物を輸入して富国強兵策を採ったのは、アヘン戦争から受けた恐怖心がその根底にあった様です。そして我が国の外交は、斜陽の清帝国や李氏朝鮮王朝を支えるどころか、それらを侵食し、韓半島から中国東北部にその覇権を拡げることによって、西欧列強の帝国主義を凌駕する帝国主義外交を振るうようになって行きました。1905年日露戦争の勝利が国民を有頂天にし、日本人が優越民族としてアジアを支配する皇国思想が蔓延し、その驕慢と反比例して、中国人、韓国人等アジア民族に対する蔑視が、子供たちにまで拡がっていきました。

 1937年盧溝橋での軍事衝突以降、関東軍と中央の参謀本部が、既に建国していた満州国をソ連の威嚇から守るために北方に向けて軍備を強化しなければならないのに、中国に数個師団を投入して戦火を拡大させた背景には、当時中国は国民党政府と毛沢東の共産党が内戦状態にあり、地方軍閥も割拠して政治的混乱が続いており、この期に日本の権益を拡大させたいという政府の意向と陸軍内部の中国人蔑視が、大きく作用していたようです。それがまた、新聞等により宣伝された「暴支膺懲」によって煽られた民衆が、軍の行動に歓呼の声を挙げて応援し、日中戦争は中国大陸全土に拡大し、誰も止める者がない有様でした。

  1929年世界大恐慌のあと、ドイツ国内で急成長したナチスドイツは、1933年ヒトラーが首相に就くのですが、ソ連との対抗上日本国と防共協定を結ぶ必要に迫られ、リッぺントロップと駐独大島弘武官との間で交渉が行われ、1936年廣田内閣の時に日独防共協定が締結されます。これに伴いリッペントロップは日本軍がソ連を背後に日中戦争に深入りすることを好まず、トラウトマン特使を派遣して蒋介石と近衛首相との間で休戦協定を締結して日本軍を中国から撤兵させようと働きかけるのですが、戦勝気運に乗った日本軍は杭州から南京に進軍している時で、廣田弘毅外相は停戦交渉を引き伸ばし、その間近衛首相が天皇に上奏を行い、「国民政府を対手にせず」という近衛首相声明を出すことになります。その間国民は「南京陥落」を祝う提灯行列をしていたのです。当時その南京で日本軍が何を行っていたかは、日本の一般大衆は敗戦後になって知らされたことでした。そしてまだその事実を認めない人が数多くいます。

 1939年ヒトラーは突如スターリンとの間で独ソ不可侵条約を結んで、日本の平沼内閣はその衝撃で総辞職し、次の阿部内閣、米内内閣も短命に終わり、1940年第2次近衛内閣となります。この年ヒトラー特使シュターマーが松岡要右外相と会談して「日独伊三国同盟」の基本構想を纏め、近衛首相が閣議に掛けたところ、それまで米内光政、山本五十六、井上成美を中心に猛反対をしていた海軍の及川海相が折れて、我が国は三国同盟に加わることになり、9月27日ベルリンで調印式が行われ、我が国は「バスに乗り遅れるな」の掛け声の下、既に1939年ドイツのポーランド侵攻で始まっていた第二次世界大戦に突き進んでいくことになります。

 このような80年前の昭和史を見ると、日本人がいかにアジアの人達に対して尊大であり、「暴支」どころか自らが暴力を振るっていることに気付かず、また同じ失敗を繰り返そうとしていることが、はっきりとわかります。また近衛文麿、松岡要右等国民一般に人気があり、知性や学識も高く評価されていた人物がヒトラーのデマゴーグに乗せられて、国政を誤ったか、それは一般の軍人や大衆も同じでしょう。半藤一利の「世界史の中の昭和史」の中に「自邸での仮装パーティでヒトラーに扮した近衛文麿」、「南京陥落の祝賀行列に沸く国防婦人会」や「来日したヒトラー・ユーゲントと記念撮影をする板垣陸相ら」の写真がありますが、そこに私の伯母や、職業軍人だった叔父が写っていても不思議でない光景です。

 このような知性の欠如を補うものは何だろうか。日本人が昭和史のあの失敗を繰り返さないためには、何をしたらよいのでしょうか。まず第一に、私達が「おきて」に従うことを、常に心がけることです。そのためには私達の間の「おきて」を正しく定め、かつそれを守るよう心掛けることです。具体的には、国の憲法を定め、それを正しく履行することです。

 大日本帝国憲法の最大の弱点は、天皇を国家元首であると同時に大元帥陛下として統帥権を付与したことにあると言われています。陸軍の山県有朋はこの統帥権を元に帷幄上奏を行い、軍人が事実上国家を支配する道を開きました。そして昭和史の中の日本軍は、1928年世界不戦条約を無視し、戦争に関する様々な規定、例えば捕虜の取り扱いに関する規定を守りませんでした。南京陥落の際兵士と一般市民を区別せず、世界の非難を浴びました。
 日本国憲法の最大の功績は、第9条によって我が国から軍隊を亡くしたことでした。従って天皇の統帥権も消え、戦後の自衛隊は内閣による文民統制の下に置かれています。しかし2013年自民党の「憲法改正草案」は、天皇を国家元首とし、第9条に国防軍を唄っています。将来第二、第三の山県有朋が現れ、天皇の統帥権が復活しないとも限りません

 其の二「あかし」について、昭和史の中で、為政者は報道を曲げ、自分に都合の悪いことは隠しました。報道機関が国民に正確な報道をしなかったために、軍隊が虐殺行為をしている時に、国民は提灯行列をしていました。
 其の三「さとし」について、昭和史では為政者や軍人ばかりでなく一般大衆も学問を謙虚に学び取ることをせず、精神力で乗り切ろうとしました。その結果劣悪な兵器を持って特攻作戦を行い、多くの若者を無駄に死なせました。また軍首脳部の無謀な作戦の結果、戦う前に餓死し、又は海没する将兵が、戦死者の大半を占めたことも事実です。そのような戦死者を慰霊すべき靖国神社の遊就館には、敵軍将兵からBAKAと蔑称された特攻兵器が賑々しく飾られています。
 其の四「戒め」について、昭和史の為政者は自分の都合のよいように民法や刑法を強化して、国民の言論、思想信条の自由を奪い去りました。最近の安倍内閣による防諜法にその再来が見て取られます。このような反動立法に反対する学者が学術会議任命から外される事態が発生しています。霞が関官庁の人事は内閣府人事局によって握られ、首相官邸に忖度する人物が出世し権力の座に就く時勢となり果てています。

 これらすべては、我が国の父祖達の、恐れを知らない傲慢な心から発したことで、昭和史の結末は未曽有の敗戦でした。もしあの時軍部が拘った本土決戦を行っていれば、国は滅び、領土は米ソによって分割され、生き残った民は奴隷状態になったことでしょう。戦中戦後を生きた私達は、今より遥に悲惨な境遇に貶められていたに違いありません。うがった見方かもしれませんが、旧植民地の韓半島や沖縄,台湾が我が国の身代わりとなって、分断国家又は軍政下の苦悩を味わっているといっても過言ではないようです。

 「昭和史」が展開されていた最中に生を亨け、敗戦後の苦難の時代を生きてきた私達に取って、「昭和史」で日本人が犯した失敗を深く検証し反省しなければ、戦後70年の今日、私達はまた同じ失敗を繰り返すのではないでしょうか。
 

日本学術会議について

 投稿者:徳永 博  投稿日:2020年12月 8日(火)12時01分4秒
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   今年9月中旬、菅義偉氏を首班とする新内閣(菅内閣)が誕生した直後に起きた日本学術会議任命拒否問題に関して、わが佐高八期会ホームページに山下永二君が優れた論評を載せておられます。ただ山下君は元自衛官の立場から、日本学術会議が公的機関でありながら、その設立の趣旨から戦争に関わる軍事研究を拒否していることに異議を唱えておられると仄聞されます。確かに此の軍事研究拒否問題、延いては日本学術会議の存在趣旨そのものを議論することは、戦後75年経って我が国を取り巻く世界軍事情勢が著しく変化した今日、国民にとって喫緊の課題だという意味では、山下君と全く認識を共にするものです。

 しかし今回の任命拒否問題に限ってみれば、日本学術会議の推薦名簿105人から任命拒否された6人の学者がいずれも刑法、歴史学と言った人文科学系で軍事研究云々とは直接関係ない人達であること、また国会衆参予算委員会での野党議員の質問に対する菅首相の答弁が、日本学術会議法の制定趣旨、及びその後国会で日本学術会議の会員任命に関して内閣法制局を含む政府側見解と相違し、極論を言えば菅首相答弁は法令違反ではないか、という疑問が起こっているので、私は今回菅首相が行った「任命拒否」に限って、持論を述べます。

 まず菅首相は、憲法第15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」ことを根拠に、今回の任命拒否は正当かつ合法であると主張されています。それは1969年当時の高辻正巳内閣法制局長官が、教育公務員特例法10条に文部大臣が国立大学の学長の任命をめぐって「大学管理機関の申し出に基づいて任命権者が行う」とされており、文部大臣は例外的に大学側から上がってきた学長候補の任命を拒否することもありうるとの見解を示したことと同様、今回の任命拒否もこの内閣法制局見解に沿ったものだと答弁しておられます。

 しかし1983年5月の参院文教委員会で、日本学術会議の会員の任命が選挙から推薦・任命制に変更する日本学術会議法改正案が審議される過程で、社会党の粕屋輝美議員が「会員210人の内、政府がその中から2人だけを拒絶するようなことはあり得ないか」と質したのに対し、法案の担当者だった高岡完治内閣官房参事官が「そういうことはできない、中身が200人であれ一人であれ、形式的な任命行為であることに変わりはない。その点は内閣法制局の担当参事官とも十分に詰めている。」と答弁しています。また当時内閣総理大臣だった中曽根康弘氏が国会で「日本学術会議の会員任命は形式的任命である」と語っていることでも、前記高岡内閣官房参事官見解がそのまま政府見解であることが、国会の議事録で明確に証明されています。

 今回の菅首相による任命拒否は、極論すれば1983年の政府見解を変更することになります。 それでは日本学術会議会員任命に関する内閣法制局見解は、何時変更されたのでしょうか。仄聞する限り、中曽根首相から途中民主党内閣時代を経て、前任者である安倍晋三首相に至る間、このような変更がなされたことは、国会議事録のどこにも記載されておりません。

 今回、菅首相が従来の政府見解を変更して、憲法第15条を根拠に、学術会議が推薦した105名のうち6名の任命を拒否したことについては、権利者である国民に対して、公僕である首相が、なぜそうなったかを十分に説明する必要があります。しかし菅首相は衆参予算委員会での野党議員の執拗な質問に対して「総合的、俯瞰的に決定した」と抽象的な答弁を繰り返すだけで、6名任命拒否の理由については、「個々の人事に関しては、答えらえない」と具体的な答弁を拒否しており、国民に対し説明責任を果たしているとは到底言えません。
さらに、憲法第74条には「内閣は、他の一般行政事務を行ふ。」として、その四に「法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。」と規定されています。これを日本学術会議法について見れば、「第七条 日本学術会議は、二百十人の日本学術会議員(以下「会員」という。)をもって、これを組織する。2 会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。3 会員の任期は、六年とし、三年ごとに、その半数を任命する。(以下省略)」となっています。すなわち、内閣総理大臣は、三年ごとに日本学術会議の推薦に基づいて、会員の半数に当たる百五名を任命しなければならず、今回の菅首相による九十九名の任命は、憲法第74条及び日本学術会議法第17条の規定を充足していない、換言すれば法令に違反していることになります。

 もう一つ、私達が忘れてはならないのは、日本国憲法第24条「学問の自由は、これを保障する。」という条文です。国会で野党議員がこの「学問の自由」を持ち出した時に、菅首相は会員任命拒否問題とは全く関係がない、会員であろうとなかろうと学者は自由に研究ができるという趣旨の答弁をされましたが、果たしてそうでしょうか。

 我が国の歴史を見ると、私達佐高八期生が生まれた1938年より5年前の1933年京大法学部滝川幸辰教授の刑法学が政府見解に反するものとして鳩山一郎文部大臣により滝川教授は罷免され、法学部教授たちが抗議の辞職をするという事件がありました。また1935年には東大法学部教授を定年退職して貴族院議員となった美濃部達吉が、菊池武夫議員の天皇機関説排撃演説により貴族院を追われ、彼の著書は発売禁止になるなどの迫害を受けたことがありました。戦後滝川教授の復職と美濃部学説の再認識が行われる中で、政府が学者の見解や国立大学教授の任命に圧力を加えることを排除し、学問の自律性を担保するために、この憲法第23条「学問の自由」が制定されたのです。

 日本学術会議は国立大学や国立研究機関ではありませんが、年間10億円の国家予算を投じて、政府に対する独立した諮問機関として、戦後75年の間様々な活動をなしてきたものです。同じく西欧先進諸国では国立科学アカデミーとして、莫大な国家予算が投じられながら独立の機関として、時には政権に逆らう提言や勧告を出しながら、学術の進歩発展に貢献して来ました。16世紀宗教改革、17世紀ガリレオやニュートンによる科学技術の発達を経て、18世紀産業革命時代にドイツやイギリスにおける王立アカデミーが時代の先端を走ったように、第二次大戦後我が国における科学アカデミーとして、日本学術会議は機能してきたのです。

 菅首相は国会の審議の中で、日本学術会議は閉鎖的で、出身大学にも偏りがあり、若手会員、女性会員の割合も少ない等述べておられましたが、それでは今回任命拒否された6名は、私学出身も若手も女性もおられるのに、どうして任命拒否なのでしょうか。時の政権に逆らう学説や市民運動に参加したことを以て任命を拒否されたのであれば、日本学術会議内での自由な学問業績の発露や意見交換が疎外され、御用学者ばかりの溜まり場となり、学問の進歩発展はむしろ阻害されてしまうのではないでしょうか。

 私的な感想を許していただければ、私は1961年秋、湯川秀樹教授が理学部の湯川記念館に、原爆を製造したマンハッタン計画の主任者オッペンハイマー博士を招いて、原水禁運動の講演会を催されたことを傍聴したことを覚えております。当時オッペンハイマー博士は第2次大戦時の業績にもかかわらず戦後の冷戦時代に、反政府活動をしたとマッカーシー議員等から睨まれ、それでもアインシュタイン、ラッセル卿等とともに、原水爆禁止運動に邁進しておられました。オ博士は私が遠くから見た時既に病魔に侵されて顔面蒼白で、傍に居られた湯川博士が却って若々しく見えたのです。その湯川博士も退官後は科学者京都会議の発起人、反核運動の提唱、推進者として、1981年逝去されるまで、日本学術会議と同様の科学者活動を続けられたことを、畏敬の念をもって思い出しています。
 

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