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徳永君の憲法観に異議あり

 投稿者:山下 永二  投稿日:2018年 5月22日(火)08時36分1秒
返信・引用 編集済
   冷戦時代からの左翼思想を引き継いでいる徳永君とは見解が大きく異なることは承知していた。日本人として又同窓生として平和への願いは同じでも同床異夢だろう。反論することに意義ありと思い少し長くなりますが述べることにしました。
1 首相の靖国神社参拝は、政教分離に違背しているか?
・ 靖国神社は、戊辰戦争の戦没者の慰霊を祀るため、明治2年東京招魂社が創建され、明治12年に別格官幣社になり靖国神社と改称された。日清、日露戦争、第二次世界戦争と続きその戦没者追悼の中心的施設であった。戦前は陸海軍が管理していて、もともとは宗教ではなった。戦後 米国の占領政策により、昭和20年12月 国家神道を排除するため「神道指令」によって一宗教法人としての存続を余儀なくされた。祭神は、剣と鏡でありこれに戦没者の名簿を備えている「特別の宗教法人」といってよい。
・ 最高裁の政教分離に関する見解
昭和52年12月 津地鎮祭訴訟判決で「国家と宗教は、憲法で社会的、文化的関わりを一切禁止しているのではなく、目的や効果によって関わり度合いを限定したものである。特定の宗教団体や教会に介入し限度を超える場合は禁止される。」と原理主義的解釈を退け「広義の政経分離」説の見解を示した。
・ 日本で政教分離が問題になったのは、昭和62年8月中曽根首相が参拝した時、A級戦犯が合祀されて6年後に中国から抗議された。これを契機に首相の靖国参拝は中断された。それ以前は、天皇や総理大臣や閣僚等議員は、与・野党関わりなく参拝していた。中国の抗議は、明らかに我が国に対する内政干渉である。その後小泉首相が平成13年に暫く途絶えていた参拝を再開したが、多くの宗教団体等から訴訟が起こされたのが現状である。
・ 私達の生活では、古来から死者を神として祀る世俗的宗教習慣が受け継がれている。靖国神社戦没者慰霊参拝もその習慣の一つにすぎない。国のため尊い命を捧げて戦死した人は勿論、その遺族に対しも国が何もしないのは、怠慢であり申し訳が立たない。多くの国では大統領等国のトップが戦没者に拝礼する時は儀式として政教分離と関係なく行われている。
2 集団的自衛権とは
・自衛権は 国連憲章第51条に「個別的自衛権及び集団的自衛権は固有の権利」として定めた国際法で認められている。日本が武力攻撃を受けた場合に必要最小限度の範囲内で武力行使は可能というのが「個別的自衛権」である。「集団的自衛権」は、直接攻撃を受けていない第三国と共同で防衛できるこという。日米安保条約は、集団的自衛権を行使できる安全保障である。
・ 日本の自衛権の根拠
憲法は昭和27年5月 施行されたが、自衛権や集団的安全保障等明文した文言や規定がない。憲法制定当時、防衛や自衛権は、「芦田修正」という解釈から始まった。1951年9月サンフランシスコ平和条約と同時に旧日米安保条約が締結して日本の独立と自衛権が認めれ、防衛や安全保障の解釈の根拠になった。
3 安保法制とは
・ 2015年9月に成立した平和安全保障法制は「平和安全法制整備法」及び「国連平和支援法」である。
・ 「平和安全法制整備法」
従来の憲法解釈を改め集団的自衛権は限定的に行使できると容認された。日本周辺の安全保障環境が激変し、存立危機事態に至った時個別的自衛権では対処できなくなった。日本の国家存立が危ぶまれる時に限って集団的自衛権を行使できると解釈を変更し、日米同盟の実効性を高めため法制が整備された。
・ 日米安保条約の片務性
本来同盟関係は相互依存を主旨とし、相互に防衛するのが原則である。日米安保条約では、米国は日本を防衛する義務があるが日本は米国を防衛する義務はない。代わりに基地を提供するという片務的条約である。
分かりやすく言えば、仲間と一緒にいて他と喧嘩になった時、自分に仕掛けれれた喧嘩には仲間が助けてくれるが、仲間がやられている時は、何もやらないという片寄った約束だった。
・ 「国連平和支援法」
従来特措法によって自衛隊を派遣していたが、国際平和への貢献のあり方を一般法で活動できるようになった。
・ 自衛隊の海外派遣の背景
冷戦後、民族問題が顕在化し地域紛争は頻発するようになって、国連の平和維持機能に関する期待が高まった。1991年の湾岸戦争の時、日本は多国籍軍へ130億ドル(約2兆円)という多額の資金を提供したが、人的貢献をしない日本は国際社会では評価されなかった。国連から、より積極的な国際協力を求められるよになり、ペルシャ湾へ機雷掃海のため、海上自衛隊を派遣した。これを契機に国際協調を掲げる憲法の主旨に沿って、人的貢献のため平和維持活動(PKO)を開始した。1992年カンボジア暫定統治機構へ施設部隊の派遣、更にモザンピーク、トルコ、東ディモール、イラク難民救助、タイ、インドネシア等へ グローバルな安全保障環境改善、国際救助活動に海外派遣し国際貢献をした。このため国際平和活動は自衛隊の本来任務として拡充された。自衛隊の海外派遣はこのような情勢の変化のから生れた。私が在籍していた冷戦当時 対ソ戦略対処に専念していた頃とは様変わりした自衛隊の役割・活動を担うようになった。
4 解釈改憲の変更は可能か
・ 当初の内閣法制局の見解
1981年(昭和56年)5月内閣法制局は「個別的自衛権を有しており、憲法9条下で必要最小限の範囲内で許されるが、集団的自衛権は保有しているが許されない」との見解だった。他国では見られない日本特有の見解で冷戦下で米国の傘下に入り安全を依存していた内外情勢から解釈されたのだろう。
2015年に成立した安保法制では、国連憲章第51条で固有の権利として認められている集団的自衛権の行使は保有するが容認できないという解釈には矛盾があり、個別的自衛権と同様に必要最小限度の範囲内で集団的自衛権に含まれると解釈された。
・ 解釈変更の背景
憲法制定当時は、日本は国連に未加盟で日米安保条約も締結していなかったので、集団的安全保障の規定に基ずく活動は全く考える余地がなかった。米ソ冷戦時は、米ソの狭間のなか集団的自衛権の行使の有無はどうでもよかった時代背景だった。その後 朝鮮戦争、ベトナム戦争、冷戦後の人続紛争、対テロ戦争、イラク戦争等終わりの見えない戦いが絶え間なく続いている世界情勢に激変した。東アジアでは、中国の軍備増強による海洋進出、北朝鮮の核武装化、ミサイイル弾道開発等我が国周辺の厳しい安全保障環境は想定外であった。
存立の危機を考慮しなければならない情勢の中、集団的自衛権について解釈を変更せざるを得なくなった。
・ 憲法解釈は、時代の変化に応じて政府責任の範囲内において「事情の変更」は認められ、法理論上可能であると法学者はいう。
5 解釈改憲は何故行われるのか?
・ 端的いえば、憲法改正が容易にできない難問になっているからでしょう。
・ 憲法9条にしても憲法20条にしても文言どおり素人が読めば、自衛隊は違憲であり、首相の靖国参拝は政教分離に違背すると解釈される。憲法は昭和27年に米国の占領下で施行され容易に改正されないように硬性憲法にされているため、70年の歳月が経った現在でも改正できない。
・ 宗教は長い歴史と文化がありそれを受け継いでいる習慣が根付いている。従って国家と宗教は社会生活上密接に関わっており、完全に分離すれば混乱が起こる。多少の関わりを認める幅のある解釈が必要だろう。
靖国神社に反対する宗教団体や勢力は、純粋に反対するものもあれば、反対することによって利益や保障を目論むものもあるでしょう。また、第9条の戦争放棄についても、自衛隊まで放棄すれば、国家存立の危機に瀕し亡国になるこは必然である。進化する時代に即応して最小限の範囲内で柔軟に解釈することが国家統治機能であろう。憲法が残って、国が滅ぶ事態は絶対に避けなければならない。また、現憲法が日本の歴史や文化や伝統・習慣を十分に配慮されず占領下で米国主導で早急に制定したことも原因の一つである。
・ 人間のやることだから、不自由なことや理に叶わないことがあれば、皆で話し合って合致するように変えればよいと思うがなかなかそうはいかないのが政治の世界なのでしょう。
解釈改憲は当然慎重に行われなければならないのは言うまでもない。

                         平成30年5月吉日   山下永二










 
 

憲法記念日に想う

 投稿者:徳永 博  投稿日:2018年 5月 3日(木)18時04分1秒
返信・引用 編集済
   今日5月3日は日本国憲法が1947年5月3日に施行されてから71年目の記念日に当たる。諸外国の憲法が施行後幾度も改正されているのに、この日本国憲法だけは、施行後一度も改正されたことはない。それなのに憲法本文と、我が国の政治形態が、月と鼈ほど乖離してしまった例は、ほかのどこの国にもない。
 憲法第99条に「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と明記されているのに、国権の長である総理大臣や国会議員が、今は一宗教法人にすぎない靖国神社に公式参拝して、憲法第20条3項に違背していることに気が付かない。あるいは、靖国参拝は、国の為に戦って戦死した戦没者を慰霊顕彰するという、社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超えないものだから、むしろ国政に携わる者が、率先して行うべきものだと開き直る。そして「靖国参拝」は憲法25条の「宗教的活動」に該当しないというのだろうか。
 1946年憲法公布の時の総理大臣だった吉田茂が、1950年朝鮮戦争勃発直後、連合軍総司令官マッカーサー元帥から送られた書簡に応じて警察予備隊を創設し、これが国民の間に憲法第9条「戦争放棄」に関する議論を巻き起こし、それが70年後の今日まで「自衛隊違憲論」と、それを合憲とするための憲法改正の動きに至っていることは、改めて述べる必要はないだろう。憲法第9条が自衛権の行使迄放棄したものではないという「芦田解釈」によって合憲だとされてきた自衛隊も、2003年イラク戦争への海外派遣に伴い、それまで集団的自衛権行使は違憲だとしてきた内閣法制局の見解を変更するか、憲法そのものを改正すべきか,との隘路に立たされた政府与党は、安倍首相が提唱して憲法第9条の中に自衛隊を明記する方向で政府与党内の議論が進められている様である。しかし憲法議論とは何の関係もない「森友学園」、「加計学園」で与野党が対立している今の国会では、憲法改正議論は一向に進展しない。
 それにつけても、1947年文部省発行の「あたらしい憲法のはなし」で、小中学生に向けて「『放棄』とは、『すててしまう』ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国より先に行ったのです。世の中に、正しいことぐらいつよいものはありません。」と教えていながら、今になって同時多発テロを戦争とみなしてイラクに軍隊を送り、また我が国に対して「旗を挙げよ」と参戦を促すアメリカに呼応して、自衛隊を海外派兵する政府与党が、憲法第9条に違背していないと、誰が言えるのか。同じ「あたらしい憲法の話」の中で、裁判所には『違憲立法審査権』があると説いたのに、「テロ対策特別措置法」(2001年)とそれに続く「集団的自衛権行使」を容認する一連の立法に対して、裁判所が沈黙しているのはどうしたわけか。世の中に憲法学者と呼ばれる人たちは大勢いるのに、この国の官民挙げての憲法軽視の風潮に警鐘を鳴らす学者がいないのはどうしたわけか。かつて東大総長南原茂が全面講和を唱えて政府を批判し、吉田茂首相から「曲学阿世の輩」と罵声を浴びても屈しなかった硬骨の士は、今はどこにもいないのだろうか。
 

屈原悲話と五高寮歌

 投稿者:徳永 博  投稿日:2017年12月30日(土)09時37分37秒
返信・引用
   もう十年以上続いている元役所の同窓会が、12月21日東京青山の某社倶楽部で開かれた。その時座長のY氏から、学生時代に謳っていた旧制高校寮歌に中国戦国時代の楚の詩人屈原を唄ったものがあったが、思いだせないので調べてほしい、との依頼があった。このY氏は高橋是清初代長官から数えて第62代の長官殿、在官当時庁議メンバーの端くれであった私は、上司の御命令だと受け給わり、さっそく一高から八高、北大予科や旅順高校等の寮歌を渉猟してみたが、どうも屈原との縁が見いだせない。佐高時代ストームで蛮声を振り上げていた歌の数々を思い出していたら、与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」と三上卓の「昭和維新の歌」が、遠い記憶の淵から浮かび上がって来た。

 屈原は中国五胡春秋時代、楚国の政治家で詩人、政敵の謀略で国雲が傾くのを憂い、汨羅江に石を抱いて身を投じた悲話が、司馬遷の「史記」に残されている。鉄幹の「人を恋ふる歌」には、三番に「石を抱きて 野に唄ふ」とあるのは、屈原の死をイメージしたものか、また三上の「昭和維新の歌」は冒頭から「汨羅の淵に 波騒ぎ」とあるから、屈原悲話そのもの、Y氏はこれらを旧制高校寮歌だと思っていたのでは、と同窓会の翌日、Y氏に手紙を書いて、それでこの件は終わった積りでいた。

 ところが昨日、Y氏から私の家に直接電話があり、「『人を恋ふる歌』のようなヤワな歌でも、『汨羅の淵に 波騒ぎ』と言って首相暗殺を企るような物騒な歌でもなく、たしか『武夫原頭に---、』とか言った歌にあったように思う」と仰る。それを早く言ってくだされば、歳末の多忙な時に、膨大な旧制高校寮歌集を検索する手間も要らなかったのに、とつぶやきながら、五高寮歌「武夫原頭に草萌えて」を紐解いてみたら、三番に「思いや狂ふ胡北の地、断雲乱れ飛ぶ所」という歌詞があることに気付いた。また、寮歌歌唱の巻頭言に、「蘇山延々として我等若人の気をそそる」とあるのも気になった。

 この「胡北」は熊本市内にある江津湖の北に位置するという意味、江津湖は阿蘇山の伏流水が市内に湧き出してできた湖、「蘇山」は阿蘇山だとする解釈が一般的だが、それでは味も蓋もないので、作詞者は熊本の地名にことよせて、遠く中国胡北、楚山の故事に思いを馳せたのではないか、「思いや狂ふ」というのは、楚の将来を憂いて汨羅の淵に身を投じた屈原の故事そのものではないか、と思い始めた。そして今日になって、Y氏宛て手紙を書くことになった。

 またY氏から、突然電話の呼び出しがあるかもしれず、屈原悲話と旧制高校寮歌を巡る会話は、年を越して続きそうである。
 

命こそ宝

 投稿者:徳永 博  投稿日:2017年11月16日(木)20時59分48秒
返信・引用 編集済
   毎年3月になると、東京の人たちは九段の靖国神社の境内にある3本のソメイヨシノに注目する。境内に約千本ある桜のうち、600本あるソメイヨシノがこの3本を先頭に、一斉に開花するからだ。この3本のうち2本が花を付けると、御役人が「開花宣言」をして、それから数週間、靖国神社境内、上野公園、飛鳥山、隅田川、目黒川など東京の桜の名所が、花見客で賑わうことになる。この桜開花宣言は、やがて北上して北海道にまで及ぶ。日本人にとって、春を彩る桜花によせる身近かな美意識が、実は為政者が富国強兵のために利用してきたのだと意識する人は少ない。

 靖国神社境内の北奥に「遊就館」と名付けられた博物館がある。本館と新館の間の前庭には、特攻隊で散った少年飛行兵像があり、新館ロビーには「零式戦闘機」そして最上階には特攻兵器「桜花」、その胴体には一重五弁の桜が誇らしげに描かれている。旧陸海軍が桜花を徽章に用いたことはよく知られている。それだけでなく太平等戦争末期、皇軍兵士の間で好んで唄われた「同期の桜」の最後は「咲いた花なら、散るのは覚悟、見事散りましょ、国のため。」と結ばれている。戦争の常識を逸脱したおぞましい特攻作戦には、連戦錬磨の古参兵のみならず知識や教養のある学徒兵も従容として従軍したと伝えられているが、これこそ為政者や軍隊の指揮官が「桜」を用いて兵士の美意識をくすぐり、「散る花」の自己完結を強いたのではないか。そして死後に祀られる靖国神社の境内を、多くの桜花で飾って彼らの霊を迎え入れ、戦死者の顕彰を行うようにして戦没者遺族を慰撫しようとしたのではないか。

 太平洋戦争末期、駐比海軍航空隊指令大西滝治郎司令官の発案で始められた.戦闘機に250キロ爆弾を懸架して敵艦に体当たりする「特攻」については、戦後70年の間に多くの手記や戦記が出版されている。戦前、「特攻」を日本国民が初めて知ったのは、1944年(昭和19年)10月25日大本営発表によってであった。10月29日付け朝日新聞には「神鷲の忠烈 萬世に燦たり」と、関行男海軍大尉以下敷島隊が敵艦隊を捕捉し、体当たり攻撃で航空母艦1隻撃沈等々、との記事が踊っている。その10月25日から翌年8月15日終戦の日までの僅か10ヵ月間に、海軍2,531名、陸軍1,417名の特攻隊員が戦死した、その死者の多さである。最初の敷島隊を指揮した関行男大尉は海軍兵学校70期卒の錬磨した戦闘機乗りだったが、特攻作戦の拡大に伴い、短期繰上げで士官となった学徒兵や、予科練を短縮修了したばかりの少年航空兵まで起用されるようになり、一方敷島隊の攻撃で思わぬ大損害を受けた米海軍機動艦隊は急遽対策を講じ、特攻機を事前に撃墜する弾幕を張ったため、その後の特攻作戦は殆ど成果を挙げないまま、徒に「軍神」だけを増やす愚挙を繰り返さざるを得なかった。帝国陸海軍の首脳はこのような戦果もなく徒に人命と機材の喪失を強いる特攻作戦の失敗に気付いていなかったのだろうか、それとも「神風が吹く」と、本気で思っていたのだろうか。日本国民は、なぜ偽りの大本営発表に踊らされ、神州不滅を信じて彼らの息子たちを特攻作戦に送り出したのだろうか。中古の戦闘機、果ては練習機まであてがわれ、爆装も出来ず南海洋上の米機動艦隊に向け飛び立った少年航空兵の姿は哀れである。

 太平洋戦争末期の悲劇は、皇軍の「国の為に散る」意識が、兵士以外の一般住民にまで強要されたことである。1945年3月沖縄渡嘉敷島に米軍が上陸した時、船舶特攻隊を指揮していた陸軍A大尉は、特攻兵器を処分して西山高地に住民を終結させ、長期戦に入る部隊の行動を妨げぬため、また部隊に食糧を供給するため、潔く自決せよ、と命令した。その結果329人の島民が集団自決し、辛くも生き残った島民には、軍隊は食糧徴発を命じ、従わぬ者は射殺した。このような悲劇は6月24日沖縄戦が集結するまで、沖縄各地で頻発したことを、大田昌秀が「醜い日本人」(1969年サイマル出版会)に克明に記している。

 この日本人の醜さは、沖縄戦後生還して復員した日本人将兵の戦後に、端的に表れる。戦後の日本人は、敗戦後も米軍施政権下にあった沖縄を忘れたように、サンフランシスコ講和条約に安堵した。そして沖縄戦集団自決者の慰霊祭に出席して、彼らの過去の事績を顕彰するため、「おりがきた、とみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷村に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリィ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきだったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、彼を拉致はしなかったのである。」と、大江健三郎は「沖縄ノート」(1970年岩波新書)に書き記している。

 渡嘉敷村集団自決事件をめぐる旧軍人の、というよりは日本人の醜さ、沖縄人に対する差別意識は、これだけに止まらない。沖縄戦で生還した旧軍人と旧守備隊長の遺族は、大江健三郎と岩波書店を、名誉棄損で訴えたのである。これには50数名の若手弁護士が訴訟代理人を買って出たという。既に明白なように、大江健三郎の「沖縄ノート」は、大田昌秀ほか沖縄戦を実体験した多数の沖縄人の証言をもとにしており、渡嘉敷村集団自決事件は戦後彼らによって多数刊行されていたのに、起訴した者たちは、これら沖縄人の証言には一顧だにせず、すでにノーベル賞作家としての名声を博していた大江と岩波書店に的を絞ったのである。民事訴訟としては異例のデマゴギーというべきもので、しかも本来なら被告席に座るべきものが、原告となっているところに、この訴訟の醜さ、また哀しさがある。私たちはそこに、靖国神社に東京軍事法廷A級戦犯を祀ることを、当然のこととみなし、それに反発する沖縄人、韓国人、中国人らの訴えを無視している日本人の醜さを見る。

 靖国神社が賞揚する「御国のために死ぬ」ことは、大田昌秀をはじめ沖縄の人たちが沖縄戦及びその後の米軍施政権下、また復帰後現代の基地問題に至る間に体得した「命(ぬち)こそ(どう)宝(たから)」という標語によって、強く否定される。私達は美しい「ソメイヨシノ」の陰にある国家の陰謀を見過ごしてはならない。神から授けられた生命こそ、尊い宝であることを忘れてはならない。                          (2017年11月15日)
 

72年目の終戦記念日に思う

 投稿者:徳永 博  投稿日:2017年 8月10日(木)22時47分40秒
返信・引用
   最近、稲垣真美の「兵役を拒否した日本人」(岩波新書F19 1972)を入手し読んだ。
 この書は1933年から45年にかけて、キリスト教の一集団である灯台社の人たちが、兵役拒否、宮城遥拝を拒否し、安寧秩序を乱すばかりでなく、国家転覆を企てたとして、主宰者の明石順三をはじめ、伝道活動をしていた青年に至るまで、治安維持法により検挙投獄され、有罪判決を受けて,1945年敗戦後迄過酷な獄中生活を送り、中には官憲による拷問や刑務所の劣悪な環境の中で、獄死したものも少なからずいた、その記録である。

 兵役拒否に関しては、稲垣の著書の3年前に出た阿部知二の「良心的兵役拒否の思想」(岩波新書C44)が知られている。これは1920年代に阿部が東大英文科教室で斎藤勇(たけし)教授から聴いた、西欧における良心的兵役拒否に関する講義と、戦前の灯台社事件を紹介したものだった。稲垣はこれに触発されて、過酷な獄中生活に耐え、戦後も生き残った明石順三ら灯台社の人たちを訪ねて聞き取り調査し、また陸軍軍事法廷記録や東京地裁判決、控訴審判決記録を渉猟し、灯台社の人たちがどのような法理によって有罪判決を受けたかを解明しようとしている。

 私はその中で、村本一生(かずお)という人の生き方に注目する。
 村本一生は1914年熊本県阿蘇郡永水村に、医師の長男として生まれた。熊本中学、旧制五高を経て東京工業大学染料化学科に学び、卒業後は三菱系企業に就職して,技師としての道を歩むはずだった。それが卒業の前年1935年に偶々帰郷した時、父の書斎で灯台社の機関紙「黄金時代」を手に取り、それを読んでひどく心を惹かれるものを感じた。早速その主筆明石順三に手紙を書き、程なくして明石から返事が来た。喜んだ村本は熊本の帰省先から上京後、荻窪の灯台社に明石を訪ね、彼から直接教えを聴くようになり、その年の12月受洗して「エホバの証者」の一人となった。翌年東工大卒業後も、村本は決まっていた就職先も断り、明石順三の家に住み込み、自転車で三国峠越え静岡、信越方面まで脚を伸ばして、文書伝道を拡げていった。
 その村本一生にも召集令状、所謂「赤紙」が来た。函館の伝道先から急きょ帰国した村本に、明石順三は赤紙を手渡しながら、兵役を拒否せよとも、お国の為にエホバの証者の名を辱めるな、とも言わなかった。世間一般で行われていた出征兵士を歓呼の声で送る行事は、灯台社には無縁であった。実はその5年前、灯台社は千葉県特高警察によって一斉検挙を受け、伝道文書等を没収される事件が起きていた。それらの文書には、政府や軍部を批判し、兵役拒否、天皇崇拝を否定する文言に満ちていた、同じ年1933年には京大滝川教授事件が起き、世情が騒然としていた時で、灯台社に対する弾圧は、新聞等に報道されることもなかった。

 1938年村本は熊本の陸軍第六師団歩兵十三連隊に補充兵として入隊した。この部隊は明治時代の官軍の伝統を受け継ぎ、獰猛な古参兵の多いことで知られていた。初年兵の村本がこの軍隊生活でどのような辛酸をなめたか、想像に難くない。さらに入隊後3か月目の1938年7月、村本ら補充部隊は満州に送られ、ハイラルの関東軍第二十三師団に編入された。
 1931年9月の柳条湖事件以来、関東軍は年来の満蒙領有計画を実行すべく、軍事行動により奉天,安東、遼陽、長春等主要都市を占領し、管轄外の北満にも進出、越境朝鮮軍の支援を得て32年2月ハルビンを占領し東北三省を制圧、3月満州国建国宣言に至っている。建国のスローガンとされた「民族協和」とは裏腹に関東軍は中国人民衆から物資を収奪し、対価も支払わず、民衆の怨嗟の的になっていた。それのみかスパイ容疑で捕まえた中国人を拷問の末、公衆の面前で処刑するなど、関東軍は中国民衆にとって悪魔的な存在になっていた。加えて冬季には零下30度に達する厳寒の地での厳しい訓練の毎日である。初年兵の村本には、地獄絵を見る思いの兵営体験で、思考力も次第に鈍り、信仰も失いかけていた。このように、一介の初年兵にとって、奴隷に等しい過酷な軍隊生活の中で、村本が唯一「灯台社の証者」としての矜持を保ったのは、彼が部隊の日課になっている宮城遥拝を拒否し、皆が東方に向けて拝跪しているときに、只虚空を見つめて直立不動の姿勢を崩さなかった。この行為は、軍隊内で問題視され、古参兵からの鉄拳制裁を覚悟しなければならならなかったのに、意外にも村本の「不敬」を目撃した伍長が彼を物陰に呼び、注意したに止まった。

 その年の12月に、村本一生は部隊の命令で陸軍工科学校へ派遣されることになり、神奈川県淵野辺の工科学校の部隊に編入された。当時軍隊内で理系学校卒業者を抜擢して工科学校に送り、複雑な機器の取り扱いを習得させ、原隊に戻すことが行われていた。
村本は淵野辺の部隊編入後、休日を利用して荻窪の灯台社を訪ね、久々に明石順三に面会したが、その時明石順三の長男真人が村本に9か月遅れて応召し、世田谷三宿の野砲第一連隊に入営していた。明石は村本に対してと同様、長男に対しても兵役を拒否せよとか、お国の為に、とかいうことは一切言わなかった。しかし灯台社の機関紙「黄金時代」発売禁止処分後に発刊された「なぐさめ」には、我が国の満州政策に対する批判や、ドイツ、イタリヤのファッショ勢力と組むことの愚かしさを糾弾する記事に満ちていて、村本はかつての「エホバの証者」であったころの信仰をよみがえらせることとなった。

 工科学校に戻った村本は、そこで明石真人が軍隊内で銃を返納する挙に出たことを知る。激しく動揺した村本は、「脱柵」を試み、淵野辺から電車を乗り継ぎ荻窪の灯台社にたどり着いたが、その時は明石順三に諭され、深夜に部隊に帰還した。村本の脱走を知った上官たちは激しく動揺したが、彼を抗命で憲兵隊に引き渡すことはせず、営倉三日の処分で済まされ、隊の記録にも残されていなかった。3日目に営倉から内務班に戻った村本は、早速課せられた銃の手入れを行わず、班長のところへ行って、銃の返納を申し出た。それが村本の信仰による兵役拒否だと知った内務班長は狼狽し、その行為は小隊長へと申告され、翌日村本の身柄は東京大塚の憲兵隊分署に引き渡され、2人の憲兵から厳しい尋問を受けることになった。彼等が最も恐れたのは村本の抗命が他の兵士にも知らされ軍紀が乱れることであったが、村本の場合、信仰に基づくもので、翻意することもないことを知ると憲兵は安堵し、同年6月の軍法会議で村本、明石を懲役二年の判決を言い渡し、彼らを陸軍刑務所に送ることで決着を図った。1939年6月14日付け第一師団軍法会議判決が残されている。「全体の調子に不敬、抗命というほどには重罪をはげしく断罪するといった語調もなく、十五年戦争下の日本では類例のすくない思想的信条による兵役拒否に対し、軍の側ではすくなからず処置に困り、処断するにも一種のおもんばかりや隔意のあとも見受けられる」と稲垣は論評している。1939年当時、軍隊内で兵役拒否を行った者は、明石真人、村本一生の他、香川県善通寺の第十一師団歩兵第十二連隊で、不敬罪で懲役二年の判決を受けた三浦忠治がいる。彼も灯台社の文書伝道者の一人で、軍隊内の兵役拒否者はこの三人に止まった。いずれも灯台社の信仰者であった。

 村本一生は陸軍刑務所で服役中、刑務所長から半紙と筆を渡され、彼の思想と信条を綴った手記を書くように勧められ、2カ月後に半紙150枚の「シナ事変の真相」と題する手記を書き上げた。彼は何も知らなかったが、その手記は陸軍省法務局通報として司法省刑事局に送られ、部内極秘資料として、1939年6月21日の警視庁及び荻窪警察署の武装警官約五十名による灯台社一斉検挙と、治安維持法による東京地裁及び控訴院による判決に至る際の検察側資料として使われる。

 1939年の警視庁、荻窪警察署による灯台社全員の検挙は五年前の千葉特高警察による摘発とは比較にならない程の大規模かつ過酷なもので、村本らの兵役拒否により灯台社を標的に、周到に用意されたもので、明石順三、静栄夫妻のみならず、地方の文書伝道者に至るまで約百三十人を一斉検挙する大規模なものであった。特に悲惨なのは灯台社の思想に同調した韓国、台湾の青年たちが、日本人以上の拷問を加えられ、発狂し獄死するものが居た。中には過酷な取調に耐え切れず、転向を表明し釈放される者もいた。当時わが国の指導者達が標榜していた「大東亜共栄」が如何に身勝手なものであったかが、ここでもよく判る。
しかし明石ら主要幹部は信条を曲げず、その結果明石は治安維持法による安寧秩序攪乱の他、国家転覆を図ったとして、東京地裁で懲役12年の重刑を言い渡され、控訴院でも被告の抗弁は退けられ、明石順三は巣鴨拘置所から宮城刑務所に身柄を移され、敗戦の日まで苦難の日々が続くことになる。妻静榮に対しては三年の懲役刑が言い渡されたが、公判前から憔悴していた体は服役を待たず、獄中で肺疾により死亡している。
 しかも驚くべきことには、この灯台社一斉検挙と裁判は当時の新聞には一切報道されず、ただ非公開の裁判記録だけが残されているだけである。当時の官憲が灯台社の「兵役拒否」「宮城遥拝拒否」の思想が巷間に広がることを怖れたことが、うかがい知れる。

 村本一生は陸軍刑務所服役中も宮城遥拝を拒み続け、度重なる制裁を受けたが、のちに彼が民間人となってから特高警察による拷問のような官憲の嗜虐的な取調に比べれば、服役後また戦闘要員として使役させるための措置が取られており、明石順三の場合より穏便なものだったといえる。

 日本の敗戦により、治安維持法など一連の法律は失効し、思想犯は釈放されることになったが、敗戦直後の混乱でその移行は進まず、三木清が豊多摩刑務所内で獄死するなど不幸な事件が続いた。明石順三等灯台社の人たちも釈放され、戦後の食糧難の時代を生きることになる。灯台社は1940年内務大臣による強制閉鎖命令によって解散に追い込まれ,明石家の住居を兼ねた荻窪の本部建物も、服役中の順三の認証もなしに強制売却されてしまっており、明石と村本は栃木県鹿沼市に住みつくことになる。翌年アメリカのWatchtower 本部からの文書伝道者が鹿沼市の明石の家を訪れ、日本におけるワッチタワー伝道の再開を促すが、明石順三はアメリカのWatchtower 本部の高圧的な申し出に反発する抗議文を同本部の使者に手渡し、以後アメリカのWatchtower 本部との関係を断っている。戦時中「国民儀礼」を受け入れ、保身を図った日本の教会が、戦後アメリカのミッションボードの支援を受けて、伝道の好機とばかりに宣教活動を始めたのに比べて、明石等灯台社の行動は、福音書が伝えるイエスキリストの教えに、より忠実であったといえるのではないだろうか。

 村本一生は、その後も鹿沼市内のある教員寮の管理者となり、名利を求めぬ静かな生活を送り、師順三の逝去を看取った。彼は「灯台社の任務は終わった」と話し、鹿沼で順三と再会した時以降、その兵役拒否の体験については、あらためて人に話すこともなく過ごした。その時に、人はなすべきことをした、という充足感が、村本の晩年を支えていたという。

 いま世間では国旗掲揚、皇居遥拝を含む戦前への回帰が盛んである。これに憲法改悪が重なれば、我が国は元の「天しろしめす大和瑞穂の国」に回帰してしまうだろう。そうならない為に、我々は右傾化する政治勢力に対し抵抗の姿勢を強めなければならない。そのために思想信条の強化を図る必要がある。いま日本の近代思想史またキリスト教会史で殆ど顧みられず、忘れ去られようとしている灯台社の戦時抵抗を思いだし、正確に記憶するだけでも、我々を力付けることにはならないだろうか。
 

追悼、松田一宏君

 投稿者:徳永 博  投稿日:2017年 7月11日(火)05時28分0秒
返信・引用
   松田一宏君との出会いは、昭和27年4月城内の佐賀大学付属中学校に晴れて入学した時だった。最初附中は2クラス100人しか入学を許されず、抽選に漏れた循誘小組の我々は市立成章中か城南中に廻されてがっかりしていたのに、市が附中に委託学級として1クラス増設することを要請し、その結果私もその50人枠に入れてもらって、憧れの「白線腕章」生徒になることができた。

 新入生150人の中では、附小から繰り上がってきた生徒たちが断然光っていて、循誘の大坪や私、勧興組の陣内、神崎から来た三井所などは田舎者扱いだった、というのはひがみだろうか。附小組では石井、桑原そして松田が断然光っていた。中でも松田一宏君は眉目秀麗、紅顔の美少年だった。授業参観の時に来られた御父様は、市役所か県庁の出納長という偉い御方だと聞いて、畏怖の念を抱いた。その松田君も、附中入学選考では抽選で落ち、泣きの涙を流したが、先に述べた「委託学級」枠で、私と同じように拾われたと聞いた。市や附中の入学選考担当者は公正だったという思いと、1年生のクラスは別だったが同じ委託学級組の彼に、妙な親近感を覚えたものだ。

 昭和26~28年の附中時代は、松浦先生の英語、志津田先生の国語、高山先生の音楽、深川善次先生の図画、そして向井先生の数学と、多彩な思い出に彩られていた。それが29年の県立佐高入学とともに、途端に灰色に変わってしまう。1年生の時から大学受験のための模擬試験があって、上位成績者の名簿が発表された。最初は首席入学の江里口君、附中からの三井所君らの名前が上位に見えたが、途中から松田一宏君の名前が見え始めた。数学の中村先生、英語の高山先生の叱咤激励を受けてのことだったのか。我々田舎の高校生が四苦八苦して漸く授業料の安い国立大学の隅に入学を果たした頃、彼は若い女性の憧れの的、慶應ボーイとなっていた。今NHK総合テレビで毎朝放映している「ひよっこ」に登場する佐賀の資産家の息子の慶應ボーイ島谷純一郎と、何処か風貌が似ている。ドラマの中の島谷君と同様に、松田君が「ビートルズ武道館公演」の切符を手に入れたかどうかは、なにも聞いていない。

 次に私が松田一宏君と逢ったのは、私が勤務する特許庁に彼が訪ねて来て、彼が勤務する東都化成が特許出願するのに、誰か弁理士を紹介してほしい、という依頼を受けた時だった。私は喜んで、庁出身の化学関係の弁理士2人を紹介し、その後も良好な関係が続いていると、双方から聞いていた。佐高八期同窓会、また槙原紘君の社長就任祝賀会等でも顔を合わせたことが、同窓会関係のアルバムの集合写真からうかがえる。

 そして最後に松田君と逢ったのは、2010年4月、市川のお宅に附中の仲間とともに、病臥中の彼を見舞った時だった。彼は長年腰痛に苦しみ、この時も病床から立ち上がるのが億劫な程で、附中時代の紅顔の美少年の容貌は、薄くなった頭髪と白鬚に隠れてしまい、男の生涯とはこのようなものかと、自分にもやがて来る老境に思いを馳せたものだ。だが、この日は奥様の心尽くしの料理とお酒の午餐で大いに盛り上がり、おまけにカステラのお土産までいただいて、病気見舞いというよりは豪華なミニ同窓会の感があった。

 その後何度か、石井幹事に「松田君はどうしている?」と尋ねても、「元気でいるらしいよ」とそっけない返事で、安堵と焦燥感の行きつ戻りつを繰り返していた。あれから7年も経った今年6月27日夕に、その石井幹事から、松田一宏君が今日逝去された、との報せが届いた。
 松田一宏君、君の33年にわたる闘病生活の末の眠りは、安らかなものであってください、と祈るのみである。
 

トランプのカードはKING?それとも暗愚?

 投稿者:徳永 博  投稿日:2017年 4月13日(木)09時19分23秒
返信・引用 編集済
  4月6日、シリアのシャイラット空軍基地に、地中海を遊弋する米海軍駆逐艦2隻から59発のミサイルが発射されました。空軍基地が瞬時に壊滅状態になり、軍人十数人が戦死した他、基地周辺の農民数人も巻き添えで殺戮されたとの報道が世界中を震撼させました。その時フロリダでは米中首脳会談の最中で、習近平主席は晩餐会の最中にトランプ大統領から、シリアへのミサイル攻撃実施を告げられたそうです。13億の民を率いる大国の指導者に対する仕打ちとしては極めて卑劣かつ非常識で、これを見ただけでも、米国大統領の傲岸無智さが浮き彫りになります。日頃は歯に衣を着せない米国批判をする中国政府報道官が、抑制したものの言い方で事実だけを伝えたのは、中国首脳が大人の政治的見識を示したものとして評価されます。

 一見緊急措置に見える米国の軍事行動は、シリヤ・アサド政権の度重なる化学兵器使用に対する報復攻撃だと、米軍当局は解説し、ロシア、中国等には事前に通知してあると説明しています。しかし、国連安全保障理事会の緊急会合で、ロシア、中国代表が、シリヤ軍の化学兵器使用の有無を確認もしないで、米国がこのような短絡した軍事行動に出るのは、中東の紛争解決には却って逆効果だと、米国を非難しています。世界の大半の識者がそれにうなずいたのですが、我が国の安倍首相は化学兵器使用の有無を確認もせず(その能力もなく)、米国の戦闘行為を理解すると言って、国連の平和維持活動の責任を自ら放棄してしまいました。北朝鮮が弾道ミサイル発射実験を行うたびに、国連安保規定違反だ、東アジア地区の平和に対する威嚇だとか喚き立ててきた日本が、実戦配備されたトマホークミサイル59発もの使用に、いち早く賛意を表明するとは、これが国連安全保障理事会常任理事国を目指す国の本音なのかと、情けなくなります。せめて今回の事件に関して、事実が確認されるまでは、判らないことは判らないと言って沈黙していればよいのに、首相のこの一言が、米国のミサイル攻撃で被害を受けたシリア人の憎悪を日本に向けさせ、いつの日かこれが国内での無差別テロ事件を引き起こさないとも限りません。既に紛争地から刺激を受けた若者の無差別テロ事件がパリやロンドン、サンクトペテルブルグ、ストックホルム等で頻発しており、これ以上に人口の密集する東京の町中、駅や電車内で起きると、未曽有の大惨事となります。政府はテロ対策に血眼になっていますが、イスラム過激派の影響を受けた自爆テロ志願者には、警察当局も全く予防措置を取ることができません。国会で審議中の「テロ予防法案」は、昔の治安維持法の予防拘禁から発想を得たようですが、これが思想弾圧の急先鋒だったことを記憶している人は、今は国会議員の中にも少なくなっています。

 私は去年福島伝道所の松谷彰夫氏の案内で、原発被災地を回った時訪ねた、福島県小高町出身の鈴木安蔵氏のことを思い出します。彼は学生時代、治安維持法による予防拘禁措置によって2年にわたる刑務所生活を余儀なくされ、出獄後は憲法史の研究に没頭し、敗戦後いち早く、森戸辰男等と「憲法草案要綱」を発表し、その人権条項がGHQ民生局の注目することになり、後の日本国憲法草案に取り入れられたと聞いています。この「予防拘禁措置」が国民の人権を侵害するものであることは、今は法学者の常識だといってよいのですが、現在の安倍政権は、「テロ」に対する国民の恐怖心を巧みに利用して、この条項の復活を図っているのではないでしょうか。

 法律のことをさらに言うならば、「推定無罪の原則」があり、米国を含め各国の司法当局が遵守しているものです。それは、ある不法行為が発生した場合、容疑者が挙がっても、確かな証拠に基いて彼が有罪と認定されるまでは、容疑者は無罪と推定され、弁護士の専任等によって彼の人権が擁護される、という法則で、国家の最高権威者であっても、この原則を犯してはならない、ということです。国際政治の場では、しばしばこの原則が破られます。2003年フセインが大量破壊兵器を隠しているとの容疑だけで米国のブッシュ大統領がイラク戦争を始めたのは、同盟国の西欧諸国さえ反対した不確かな理由によるものでしたが、結局はフセインを倒しイラクを無政府状態に陥れ、中東の平和状態を破壊し、ISなどという危険なテロ集団を生んだだけで、フセインの大量破壊兵器はどこにもなく、2010年オバマ大統領による戦争終結宣言によって米軍は撤兵するという無様なものでした。そのオバマ大統領も、2001年同時多発テロの容疑者オサマ・ビン・ラディンを、国際秘密組織を使ってパキスタンの隠れ家を襲わせ殺害した事件を、陰で指揮したとされています。フセインやビン・ラディンには、推定無罪の原則は適用されなかったのです。そしてトランプ大統領に至っては、この推定無罪原則を含め、法律を順守する感覚は全くなく、感情に任せて大統領令というカードを頻発している様子は、昔のネブカデレザル王の独裁的な権力行使と何ら変わりません。バビロニアの繁栄と没落から2500年、人類はまたも暗愚な王に、この世界の平和と安寧秩序を託さねばならないのでしょうか。

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Re: アメリカ・買いたい!その2

 投稿者:徳永 博  投稿日:2017年 2月18日(土)21時15分25秒
返信・引用 編集済
  > No.191[元記事へ]

 2月になってもトランプ大統領は、「もっとアメリカ製を買え、外国で物を作ってアメリカに輸入するものには35%の関税を掛ける」と仰有っている。NAFTA協定でメキシコの安い労賃で車を作ってアメリカ国内で販売していたGM、フォードはもとより、日本のメーカーも震え上がっている。これでアメリカ国内の雇用が良くなるだろうか。
 アメリカ国内の労賃は高く、労働組合も強いから時々ストライキもする。結局製造される車は、品質が良くなく、労賃が高い分高価になって、国内での競争力が落ち、輸入外車に市場を奪われ、経営不振、倒産となると大量の失業者が出て、それこそアメリカ人の雇用喪失、社会不安へとつながってゆくのではないか。経済学には素人の私にだって,それ位の予測はできる。
 1980年代、不況にあえいでいたオハイオやミシガン等中西部の重化学工業地帯に代ってカリフォルニア、オレゴン、ワシントン等西部太平洋岸の諸州で、次世代のアメリカ産業が興っていた。その一つがシリコンバレーの電子情報産業であり、ポートランドの「ナイキ」に代表されるアパレル業、そしてシァトルの「ボーイング」だった。東部のハーバードやMITを卒業した若い企業家が活躍し、知的財産の一杯詰まった民生用電子機器が生まれ、世界に販路を拡げていった。それは単に物を売って儲かるだけではなく特許やノウハウを外国企業にライセンス契約で売ることによって、莫大な利益を上げてきた。「ウインドウ」「ドルビー」「インテル」などの知的財産権で、自分は手を汚さずに、スティーブ・ジョブスやウオズニアック等の億万長者を生み出したのだ。そして世界中の人たちは、パソコンやIフォンを購入すれば、それが中国製や台湾からの輸入品であっても、全く意識しないで、いつの間にか「アメリカ製」を買っており、代金の何十分の1かは、アメリカの創業者の懐に入っている勘定になる。
 ニューヨークのビルやフロリダのゴルフ場の売買で億万長者になったトランプ氏は、このような「物から知財へ」のアメリカ産業界の変貌をご存知ないのだろうか。
 

拝啓・山下永二君

 投稿者:徳永 博  投稿日:2017年 2月17日(金)07時41分57秒
返信・引用
   新しい年2017年が始まった途端、国際政治の世界が騒がしくなりました。
 アメリカでは就任したばかりのトランプ大統領が、メキシコ国境への壁の建設、TPP破棄、NAFTA撤廃、中東アフリカ7ヶ国からの入国禁止と、選挙期間中に公約した政策を大統領令と言う形で次々に公表し、米国内では各州裁判所で憲法違反という最も厳しい反対意見が出されたほか、全米各地で大統領令に反対するデモが起こっています。さらに数日前最初の首脳会談の相手となったイギリスのメイ首相からは、特定国人の入国規制には反対だと、鋭い批判を浴びました。その次に首脳会談を行ったわが国の総理には、詳細は不明ですが、トランプ大統領の入国禁止策を批判するだけの勇気はなかった模様です。

 それでもトランプ大統領がこの大統領令を撤回しないのは、米国人の約46%が、この施策がテロ防止につながると言う大統領の説明に納得し、この入国禁止令に賛成しているからだと言われています。しかし、2001年9月11日の同時多発テロその他,米国内で起きたテロ事件の大半が、国内に在住するテロリストによるものだということを、トランプ氏は知らないのでしょうか。第32代大統領ルーズベルトは、1941年、思想信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由を含む4つの自由を掲げて、ナチスドイツの脅威に立ち向かったのですが、今のアメリカ人はテロの恐怖におびえて、この4つの自由さえ踏みにじろうとしています。貧困大国アメリカは、思想信条まで貧困になってしまい、自国内の富を独占するのに必死なのでしょうか。

 先日、私の卒業した高校の同窓会のホームページに、今年1月の祈祷会奨励原稿をそのまま、「2017年に想うこと」と題して投稿したら、早速同期生の山下永二君から、反論が寄せられました。彼は、私が安倍政権を「覇権政治」だと言ったことを、「何をもって『覇権』などというのか。安倍首相は民主主義の原則に基づいて、議会で多数の議員を獲得した自民党の総裁だから首班指名を受けたので、それを覇権政治と言うお前は、民主主義を否定しようと言うのか。又、沖縄県が3,350億円もの交付金を受けながら、翁長知事が辺野古基地建設に反対するのは、中国の支援をうけているからではないか。また、お前が日米安保条約解消を唱えるのは、わが国の安全保障を無視する暴論、日本人の85%が日米安全保障条約に基づく日米同盟に賛成している、「弱い」日本は米国の軍事力に頼らなければ、国の安全保障は保てない。」と言うのです。防大出の元幹部自衛官の彼が言うから、間違いないでしょう。また「85%が日米同盟に賛成」と言うのは、学生時代に60年安保闘争を経験し、同年代の若者が今は中高年になり世論を形成していると思い込んでいる私にはとても信じられない数字ですが、55年体制が崩壊し、一時は政権交代で民主主義のルールが根付いたかに見えたわが国の政治が、又自民党政権の復活で、その支持層が拡大していることを見れば、あながち嘘ではないでしょう。先日米国トランプ政権のマティス国防長官が来日し、安倍首相と会談した際、彼が「尖閣諸島は日米安条約第5条の適用範囲内」と明言したことに、日本人の85%以上が安堵したのではないでしょうか。このように日米安全保障条約は、すっかり日本人を米国の核の傘に取り込んで、「弱い日本は強いアメリカにすがる」ことになったのです。

 当初、この山下論文に反論しようと身構えたのですが、山下君の意見は大多数の日本人の意見であることが分かり、筆を止めて2月10日からの首相訪米の推移を見守ることにしました。7カ国からの入国禁止令を連邦裁判所から即日差し止めの仮処分を受け、窮地に立たされたトランプ大統領が、かねて貿易不均衡と不平をもらしていた日本の安倍首相にどんな無理難題を吹きかけるか、聴いてからと思ったのですが、意外にも大統領は日本の首相を手厚くもてなし、フロリダの別荘に招いて一緒にゴルフをする、という変節振りでした。肝心の日米貿易交渉は麻生副総理とペンス副大統領に任されたようで、霞ヶ関の経済関係官僚達は一先ず安堵した様子です。日米両政府が揃って経済振興政策を採り続ける間、大企業は税制の優遇措置等で潤うのに、不法移民や難民の人権は無視され、トランプ氏を大統領に押し上げた白人貧困層の雇用問題は一向に解決せず、社会不安は倍化するでしょう。

 国際問題では、シリヤでロシア軍の爆撃で死にゆく民がおり、アメリカを目指した難民が港や空港で足止めされ、寒さで凍死するものさえ居るのに、豪華な別荘での晩餐会やゴルフ三昧は、世界がフランス革命以前の専制君主時代に戻ったようで、不愉快になるばかりです。
 しかし、このように目まぐるしく動く政局を注視して、一喜一憂することは、あまり意味がありません。むしろ、このような私利私欲による政治がまかり通る世界で、私たちは、顧られない民、虐げられ、生命の危機さえ覚えている民、義に飢え乾いている人達、そのような弱者の側に立って、この世の為政者に向けていた目を、天上の主に向け替え、全能の主に対して拝跪し、祈ることを始めなければなりません。

 旧約聖書の預言者エレミヤは、エルサレムが陥落した後、バビロンにつれて行かれたゼデキヤも、代わりにユダの総督となったゲダリヤも、バビロンに君臨するネブカデネザル王をも見ていながら、彼らに身を委ねようとしておりません。彼自身、エルサレムから南へ逃れる難民の中に居て、彼の目は、戦乱で崩壊したエルサレムを逃れて、生きるための糧を求めてエジプトへの道をたどる難民に向けられています。そして『イスラエルの乙女よ、再び私はあなたを建てる、あなたは建てられる。』とよびかける主の言葉をとりついでいます。それが今、シリヤのアレッポや貧国メキシコから逃れ、「4つの自由の国」、「富める」アメリカや西欧諸国を目指す難民に対して、地上の教会が語りかける言葉ではないでしょうか。

 わが国について言えば、難民受け入れに関して、西欧諸国に比べて極めて貧弱な対策しか採られていません。アジアからの難民に関しても、看護師不足を補うためと称して、少数の難民を受け入れているに過ぎません。オリンピック誘致、外国人観光客呼び込みに熱心なわが国が、難民を拒むのは何故なのでしょうか。昨日ホワイトハウスでトランプ大統領と会談したカナダのトルドー首相は、共同記者会見の席で、「カナダはシリヤ難民を温かく迎える用意がある」と表明しました。.隣国アメリカに比べて、10分の1程度の経済基盤しかなく、失業率も高いカナダがあえてこのようなことを言うのは、政治家を始め市民に、他国や他民族のことを思いやる心が有るからなのではないでしょうか。その少し前の、同じ場所でわが安倍首相が、日米同盟を得意げに語ったことと比べて、他者を思いやる心について、彼我の差があまりに大きくて、自国のことしか考えていないのが、我が国の為政者なのかと、赤面の至りです。

 なぜ日本人は、このように自分のことだけしか考えない、狭い心根の民になったのか。
一つには、260年にわたる江戸幕府の鎖国政策が、日本人の国際感覚を喪失させ、幕藩政治の虜にしてしまったことにあります。毎年その時期になると上演される「忠臣蔵」は日本人を皆「忠臣」にするのに貢献しています。2つは、幕藩政治を廃棄し「大政奉還」によって天皇親政を復活させた明治政府が、議会民主主義とは名ばかりで「天皇大権」を強化し、アジア太平洋地域に侵略戦争を仕掛け、滅亡寸前まで追い込まれたことが、充分に反省されていないことです。我々はこれらを克服するために、切に祈らなければなりません。
 キリスト教会は、これまで日本人の意識改革に関しては、あまり努力してこなかったように思います。日本人ばかりの教会では、難民があることに気がついていないのです。更に狭い範囲の人達だけのグループでは、囲いの外に居る人達、例えば野宿生活者の存在にも気がついていない教会もあることは、残念ながら事実です。そのような教会の礼拝で、いくら人類愛が説かれても、意味がありません。

 私たちには、今はシリヤ難民救済に乗り出す勇気も力量もありません。彼らとて、住みにくい日本に行こうとも思っていないでしょう。しかしアジアにも難民問題はありますし、その受け入れが喫緊の課題になっています。教会のディアコニアを考える時に,当然課題として挙げられるものです。それに備えするために、私たちは今、卑近な課題として野宿者パトロールを始めています。この業が続き、さらに難民問題への取り組みへと展開して行くよう、祈りたいと思います。   (2017年2月15日)
 

アメリカ・買いたい!

 投稿者:徳永 博  投稿日:2017年 2月14日(火)09時46分38秒
返信・引用 編集済
   私がまだ幼かった頃、父が経営する佐賀片田江のトクナガ薬局には、ナショナル金銭登録機が店の中央に鎮座していた。「アメリカ合衆国オハヨー州デートン市ナショナル金銭登録機会社」と銘打ってあり、子供らには触ってはいけない代物だった。昭和10年父が貫通道路の傍に開業した時に、祖父が開業祝に父に贈ったもので、当時家一軒買える程高価なものであったそうだ。我々鼻たれ小僧にとっては、金銭登録機の銘板にある、アメリカ合衆国は、戦後もしばらく残っていたB29に対する恐怖心とともに、強烈な畏怖の念を起こさせた。小学生だった私には、アメリカという国が、強力な兵器や便利な事務機器を生み出す夢の国に思えた。それは大学を卒業して就職するころまで続いて、1969年アポロ計画の月着陸船から、アームストロング船長が月面に降り立った時に絶頂に達した。
 それから8年後、JETROトロントに赴任した私が最初に行ったことは、憧れのアメ車を買うことだった。しかし義兄から借金までして購入したGMのビュイックは、それまで運転していたスバル360やフォルクスワーゲン「カブト虫」に比べてどこか大味で、アメリカ製に対する信仰は蔭りをみせはじめた。そのころ買ったカメラも、日本かドイツ製ばかりで、「コダック」はフィルムだけを愛用していた。帰国後も、自家用車はホンダ、トヨタ、フィルムは「富士フィルム」になり、私の身辺から「アメリカ製」は消えた。

 今年1月アメリカ第45代大統領に就任したドナルド・トランプ氏は「アメリカ・ファースト」を掲げ、国内雇用創出のために、もっとアメリカ製を買え、と仰っている。そこで何か買えるものはないか、と探してみたが、日頃愛用しているSchickの髭剃り刃も実は中国製、昔懐かしい「ナショナル」も、松下電器との商標権争いの後、消えてしまった。安倍首相が渡米の際、トランプ氏に贈ったゴルフクラブは「ペン・ホーガン」だったかどうか知らないが、我々庶民はそんな高級品とは無縁だ。
 高級品といえば、グランドピアノの王様「スタインウェイ・アンド・ソンズ」は確かボストンのスタインウェイ社の製品で、我が国の山葉楽器や河合製作所がどうしても追いつけない銘品で、世界中の演奏会場を独占している。しかし、他の楽器は、演奏会用の高級品はすべてイタリヤかドイツ製、樹木の豊富なアメリカやカナダでも、弦楽器や木管楽器は良いものはできない。ジャズバンドで使う打楽器に、何とか使えるものがあるくらいだ。
 トランプ氏が次に目を付けた「ハーレイ・ダビッドソン」オートバイも高級品の類、大統領護衛に使う位で、州警察や一般庶民は「HONDA」や「KAWASAKI」を愛用している。
 今日2月14日はバレンタイン・ディ、アメリカ製チョコはないかと、近所のスーパーマーケットに行ってみたが、陳列してあるのはスイスやフランス製チョコばかり、アメリカのチョコは味がきつくて繊細な日本人の舌にはなじまないことを、業者も先刻承知だ。
 とうとう最後に大統領専用機「AIRFORCE1」に象徴される飛行機に行きついた。これは、純然たるアメリカ製、ロシアや中国にまで販路を広げている、シァトルのボーイング社製だ。我が国も、飛行機だけはアメリカにかなわない。昭和30年代通産省が提唱して国産旅客機YS-11を開発し、ハワイやアメリカの航空会社に売り込んだが、大赤字を出して撤退してしまった。その後三菱がMU-2やMRJで国際航空機市場に参入しようとしているが、ボーイングや欧州エアバスの足元にも及ばない。せいぜいボーイングの下請けで炭素繊維を使った機体の一部を納品しているだけだ。
 トランプ氏は大統領になる前、ボーイング社から757旅客機を買って、自家用機としていたが、日本の庶民は、不動産の金持森ビル社長を含めて、旅客機を買えるご身分ではない。せいぜい日本航空や全日空が買うボーイング社製旅客機を利用して旅に出ることで、トランプ大統領の「バイ・アメリカ」に答えるしかない。嗚呼、貧困国ニッポン!
 

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